思考を対象化すること

レヴィ=ストロース神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』の「序曲Ⅰ」を読んだ。
序章でも序文でも(序でに書かれた)たんなる序でもない。
いかにも序曲と名づけるのがふさわしい、湿気をたっぷりとふくんだ濃密な霧がたちこめた文体。
モーツアルトというよりは、ワーグナーを思わせる。出だしの文章が決まっている。

 生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民俗誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。(5頁)

続くパラグラフには、こう書いてある。

わたしの実験室となる先住民の社会から借りてきたわずかな数の神話を使って、これからある実験をおこなうのであるが、それが成功した場合には、結果は普遍的なものになるであろう。この実験に期待しているのは、さまざまな感覚的なものに論理があること、そして感覚的なものの過程を跡づけ、感覚的なものに法則があるのを証明することだからである。(5-6頁)

感覚から抽象へといたる思考の過程を跡づけること。
いや、そのような神話的思考を生きること。神話をもって神話を語ること。音楽でもって音楽を語るように。

わたしは、ひとびとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである。
 そしてたぶん、すでに示唆してあるが、さらに踏み込んで、主体というものを取り除いて、ある意味では、神話たちは互いに考え合っている、と想定すべきであろう。(略)神話それ自体を支えているのは二次的コードであるので(一次的コードは言語活動である)、本書が提供したいのは三次的コードの素描であり、素描の目的はいくつかの神話間相互の翻訳の可能性を手に入れることである。だからこの素描は神話であると思っていただいても間違いではない。それはいわば神話学の神話である。(20頁)

そして最後に、「人類学の究極の目的」は「思考を対象化し、思考と思考の仕組のよりよい理解に貢献することである」(22頁)とくくられる。
思考を思考すること。
繰り返し読み込まれるべき文章。神話を繰り返し語り継ぐように。