ケラチノサイトは偉い



☆傳田光洋『皮膚感覚と人間のこころ』(新潮選書)


 とても勉強になったし、とにかく面白かった。科学啓蒙書として出色の出来映えだと思う。(先月読み終えた春木豊著『動きが心をつくる──身体心理学への招待』と関連づけて考えると、きっと面白いことになる。)
 よく練られた構成で読み手の関心をつなぎ(例:冒頭で「琵琶湖は生物か」と魅力的な謎をかけ、最後に本書全体を一言で凝縮する生物の定義をもって答えを明かす)、随所に挿入された思想家・文学者の引用(例:朔太郎「猫町」、レヴィナス存在の彼方へ』、リルケ『ドゥイノの悲歌』)で論述に奥行きをあたえ、ついには読者を知的興奮へと誘う(個人的な例:第9章「新しい皮膚のサイエンス」で熱く語られる、神の与えたもう数学の神秘)。
 以下、読後の余韻がさめやらぬうちに、記憶に残った話題をいくつか箇条書きにしてみる。


1.スクリーンとしての皮膚─毛づくろいと言語のあいだ


 人類が「毛づくろいしあう」体毛を失い裸になったのは120万年前。「コミュニケーション手段の中心である」言語を持つようになったのは早くても20万年前。この100万年の間、裸の人類はどのようなコミュニケーションの手段を持っていたのか?
 第1章「皮膚感覚は人間の心にどんな影響を及ぼすか」で投げかけられたこの問いに、最終的な解答が与えられるのは第8章「彩られる皮膚」。
 ヒントの1、衣服の発明が10万7千年前だったこと。ヒントの2、「体毛が極端に少ない人間の皮膚は、様々に彩られることによって、他者に対して多様なメッセージを発信する、スクリーンとしての機能も有していた」(153頁)。
 答えは刺青や文身などの身体装飾。
 著者は、コミュニケーション手段あるいは社会性を維持するシステムとしての身体装飾がもつ医学的機能(鍼灸医学との関連性)や情動・自己意識への作用(アンジュー『皮膚─自我』への言及)にふれ、さいごに「喪われた世界の記憶を持つ詩人」リルケの詩句を引用する。

《古代も今もかわりはない。けれどわれわれはいまはもう、古い世の人々のようにその心情をしずかな形象[かたち]に化して眺める力をもたないのだ》(「第二の悲歌」)


2.感覚と知覚の違い─皮膚の視覚と聴覚


 感覚と知覚は違う(ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得─―進化心理学から見た心と体』)。感覚は受動的な生理現象で、外部からの刺激に対する一時的応答。知覚は能動的で、感覚から得た情報の中枢神経系による解釈。脳がなければ、「熱い」という意識がなければ知覚は存在しない。
 皮膚は音を感じる。皮膚の聴覚については、やっとその存在が明らかにされてきた段階。それは私たちの情動や整理に大きな影響を及ぼしている可能性がある。今後の展開が楽しみ。
 また、皮膚は光を感じる。今の段階では、皮膚に視覚があるとまでは言えないが、おそらく「無意識につながる情報」として処理されているだろう。
 皮膚には電場も磁場もある。オキシトシンも合成する。ケラチノサイト(人間の表皮を形成する細胞)は偉い。


3.皮膚と意識 皮膚と言語


 第7章「自己を生み出す皮膚感覚」から。
「皮膚感覚は、私と環境、私と他者、私と世界を区別する役目を担っているのです。」(143頁)
「意識は脳という臓器だけでは生まれません。身体のあちこちからもたらされる情報と脳との相互作用の中で生まれるのです。とりわけ皮膚感覚は意識を作り出す重要な因子であるといえるでしょう。」(145頁)
「皮膚感覚は自他を区別し、空間における自己の空間的位置を認識させる。皮膚が自己意識を作っている、と言っても過言ではないでしょう。」(146頁)
「皮膚感覚だけで、我々の言語的意識、あるいは論理的思考を発達させることができるのです。(略)有名なヘレン・ケラーの逸話では、水の触角と言語を結びつける経験を糸口に、高度な言語的意識を構築しています。」(149頁)
「個人の認識と、実在との関係を突き詰めていくと、結局、頼りになるのは皮膚感覚である、という結論にたどり着くのです。皮膚感覚は自他を区別するだけではなく、最も信頼できる世界(自己を含む)認識の機能であると言えます。」(151頁)


     ※
 若干の補遺。
 著者による生物の定義は「さいごに」に出てくる「環境の情報を受容し選択する膜、広義の皮膚で囲まれた有機体」(188頁)で、これは松本元氏の生命観「環境に接する境界に情報やエネルギーの流れを制御する機能がある」(182頁)に触発されたもの。琵琶湖は幕=皮膚をもたないから生物ではない。
 また、個人的な索引として、随所に挿入された思想家・文学者の引用箇所を(皮膚に関するものに限定して)記録しておく。


安部公房『第四間氷期
「人間の情緒が、多分に皮膚や粘膜の感覚に依存していること」(32頁)
萩原朔太郎猫町
「とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。」(90頁)
トーマス・マン魔の山
「皮膚というものはつまり、あなたの外脳です」(120頁)
ポール・ヴァレリー固定観念 あるいは海辺の二人」
「すべては皮膚の発明物なり」(140頁)
リルケ『ドゥイノの悲歌』
「おんみらが肌と肌とを触れあって至高の幸をかちうるのは、愛撫が時を停めるからだ」(149頁)
◎D・アンジュー『皮膚=自我』
「皮膚感覚は、人間の子供を出生以前からかぎりなく豊かで複雑な世界へといざなう。この世界はまだとりとめがないが、知覚−意識系をめざめさせ、全体的また付随的な存在感覚の基礎を形づくり、最初の心的空間形成の可能性をもたらすものなのである。」(166頁)


 ついでに、皮膚に直接言及していないその他の引用箇所も記録しておく。


アントン・チェーホフ「退屈な話」(130頁)
エマニュエル・レヴィナス存在の彼方へ』(132頁)
◎『荘子』(136頁)
大森荘蔵『流れとよどみ』(151頁)
クロード・レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』(157頁)
◎『魏志倭人伝』(158頁)
川田順造『アフリカの心とかたち』(162頁)
◎パウリ/ユング『自然現象と心の構造』(171頁)