二人の靜


九鬼周造「文學の形而上學」(『九鬼周造全集 第四巻』岩波書店


 九鬼周造の文章を読むと、心地よい眩暈のようなロジカル・ハイに襲われる。
 昨年、『連続性の問題』を読んでいて、硬質の抒情味をたたえたあざやかな(まるで豆腐を縦と横と水平にスパッ、スパッ、スパッと刻み、瞬時に八つの断片に切り分けるみたいな)論理の冴えにしばし陶酔した。
 「文學の形而上學」は、四百字詰め原稿用紙に換算すると九十枚足らずの論考で、分量的には『連続性の問題』の四分の一に満たないが、その短さゆえにかえって論理の切れ味に鋭さが増し、その抒情性に凄味が加わったように感じられた。
 この文章が収められた全集第四巻には、そのほか「風流に関する一考察」や「日本詩の押韻」などが収録されている。つづけて読みたいが、そのためにはしばしの休息が必要。


     ※
 九鬼周造の文章のどこに抒情性を感じるのか。哲学談義のなかにときおり挿入される江戸情緒あふれる話題のとりあわせなど、なによりもその喩え、例示の面白さに独特の旨味の秘密があるように思う。
 たとえば、詩の押韻をめぐる議論のなかで、「ニツツジノ ニホハムトキノ」や「サクラバナ サキナムトキニ」という頭韻をめぐって次のように書く。


《どうして韻が成立するかといふことを時間性の構造の上から考へて見ると、時間が多様性の相互侵徹を特色とする質的時間であるため、ニツツジノのニとニホハムトキノのニとが互に他の中に入り込んで相侵し合ふからである。またサクラバナのサとサキナムトキニのサとが記憶に於て持續しながら互に浸透し合うからである。さうして、ニとニのやうに、またサとサのやうに、相應和する韻と韻とは、たとへ同音であつても、持續の潤色を受けてその具體性に於て質的相違を示してゐることは、吉野山で別を惜んだ靜と鶴岡八幡宮で舞をした靜とのやうなものである。》(全集第四巻19頁)


 吉野山で別を惜んだ靜と鶴岡八幡宮で舞をした靜! これと似た指摘が、リズムや脚韻(や頭韻)や畳句といった、小説(川端康成の『雪國』)の中の詩的要素をめぐる文章に見られる。


《小説の中の詩的要素については川端康成の『雪國』を例に擧げることができる。この小説は非現實な夢幻の世界を喜ぶ主人公島村の性格によつて既に内容上も詩的なものとなつてゐるとも考へられるが、内容の上だけではそれを打ち毀す程の強烈な現實的日常性も前面へ出て來てゐる。この小説を詩的なものとしてゐるのはむしろ形式の上にあると思ふ。この小説には詩のリズムとか韻とか疊句に當たるやうなものが用ひられてゐて全體が深みを有つた現在として直觀されてゐる趣がある。新緑の初夏と年の暮の冬と紅葉の秋と三つのリズムをなして同じ北國の温泉村の情景が繰り返されてゐる。駒子の唇が美しい蛭の輪のやうに滑らかだといふ同一の形容が初夏と冬と秋と三度まで出て來てゐるのは三つのリズムに應ずる三つの脚韻のやうな役目をしてゐる。汽車の窓ガラスに窓外の夕景色と車内の葉子の美しい姿とが一しよに寫つたこと、山の白雪を寫した鏡のなかに駒子の眞赤な頬が浮んだこと、待合室のガラスが光つて駒子の顔がその光のなかにぽつと燃え浮んだこと、駒子が窓際へ持ち出した鏡台に紅葉の山と秋の日ざしが寫つたこと、鏡のなかで牡丹雪の冷たい花びらが駒子の首のまはりに白い線を漂はしたこと、これら同一の非現實的感覺が詩の疊句のやうに適宜の間隔を置いてまたしても繰り返されてゐる。また葉子の聲が悲しいほど美しく澄み通つて木魂しさうだといふ主題も三四囘繰り返して變奏曲のやうに響いてゐる。其他「嘘のやうに多い星」、「氷の厚さが嘘のやうに思はれて」、「桐野三味線箱……これを座敷へ擔いで行くなんて嘘のやうな気がして」、「嘘みたいにあつけなかつた」、「なんだか靜かな嘘のやうだつた」などと現實の非現實性を強調する同一の言ひ廻しが頭韻のやうにところどころに出て來る。「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌ひ」といふ同一の言葉を駒子は年の暮と翌年の秋とに繰り返してゐる。これらの反覆によつて小説の叙述は詩の直觀のやうな形式となり、時間的性格に於て現在が特に著しく強調されてゐるのである。》(同52-54頁)