「瞑想のすすめ」

☆地橋秀雄『実践ブッダの瞑想法──はじめてでもよく分かるヴィパッサナー瞑想入門』(春秋社)


 日経(02月10日朝刊)の文化面で永井均さんの「瞑想のすすめ」を読んで、さっそく影響を受けた。


 著者はグリーンヒル研究所の所長。同じ春秋社から『ブッダの瞑想法―─ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』(2006年05月)と『人生の流れを変える瞑想クイック・マニュアル―─心をピュアにするヴィパッサナー瞑想入門』(2008年01月)が出ている。
 書店で『ブッダの瞑想法』を探したが見あたらず、DVDブックを購入。理論より実践から入ることになった。


 永井均さんのエッセイは、「半年ほど前から瞑想修行を始めた。座禅から入ったのだが、座禅は退屈である。」「今やっているのは、見かけは座禅とそっくりだが中身はまったく違うヴィパッサナー瞑想といわれるもの。」と始まる。
 ヴィパッサナー(「明らかに見る」という意味のパーリ語)瞑想は、仏陀がさとりをひらいたときに用いたとされるもの。ウィキペディアによると、「仏教において瞑想(漢訳「止観」)を、 サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分ける見方がある」。
 エッセイの最後に、座禅(サマタ瞑想)との違いが書かれている。


《座禅が煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界に人を連れ戻すのに対して、ヴィパッサナー瞑想は煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界にこの世の生活を変える。》


 これを読んで連想したのが、心(魂)と体の入れ替えをめぐる思考実験だった。
 引用文にある「この世」の「生活」が私の体で、「この世」の「人」が私の心。そして「ただ在るだけの世界」における「生活」と「人」がそれぞれ他人の体と心にあたる。そんなふうにおきかえてみる。
 すると、座禅の場合は私の心が他人の体の中に移っていくのに対して、ヴィパッサナー瞑想では私の体が他人の体に入れ替わる。結果はおなじこと(私の心と他人の体がむすびつく)のようだが、前者は他人の世界での出来事、後者は私の世界での出来事。
 そんなことが言えるとして、それではそのどちらがほんとうの「私」なのか。


 もう一つ、永井エッセイで面白かった文章を丸ごと抜き書きしておく。(文中の「あの野郎」とは、心の中に次々と浮かんでくる想念のひとつの例。これは言わずもがなのこと。)


《ちょっと哲学用語を使わせてもらえば、心の状態には「志向性」と呼ばれる働きがあって、これが働くと思ったことは客観的世界に届いてしまう。世界の客観的事実として「あの野郎」が何か酷いことをしたことになってしまうわけである。すると、作られたその「事実」に基づいて二次的な感情も湧き起こり、さらに行動に移されもする。その観点からの世界の見え方が次々と自動的に膨らんでしまうわけである。
 志向性は言語の働きなのだが、ちょっと内観してみればすぐに分かるように、言語を持つわれわれは、黙っているときでも頭の中で言葉を喋り続け、想念を流し続けている。ヴィパッサナー瞑想の標的はまさにこれなのである。そうした想念の存在が気づかれ、客観的観点から明らかに見られると、想念のもつ志向性は奪われ、それが連鎖的に膨らんでいくことも、それに基づいた二次的な感情が起こって行動に移されることも、止められる。志向性が遮断されれば、心の中で現に起こっている単なる出来事として、ただそれだけのものとなるからだ。》


 心の中の「出来事」と客観的な「事実」という語彙の使い分けが面白い。
 永井さんが『西田幾多郎』で使った言葉におきかえると、言語がもつ志向性の働きによって、「出来事」=「自己意識なき意識」が「事実」=「意識なき自己意識」になる。つまり、クオリアが言葉(の意味)になる。