切抜帖──『あわいの力』から

 安田登著『あわいの力』からの切り抜き。


◎ワキとはすなわち「媒介」である


 ワキは「分く」の連用形。着物の脇の縫い目(ワキ)が着物の前後を分けると同時につなぐように、能のワキは「あっちの世界」と人間、「異界」と現実世界を「媒介」する「あわい」の存在である。
 「あいだ・あひだ」「あわい・あはひ」は「あふ(合う、会う)」と同根の語で、ふたつのものが出会う界隈が「あひだ」であり「あはひ」である。
 シテ方に面(おもて)、笛方に笛、鼓方に鼓という「お道具」があるように、ワキ方は自分の身体を「道具」とする。
 人間は、身体という「媒介」「あわい」を通して外の世界とつながっている。身体は「ワキ」であり、すべての人は「あわい」を生きている。
「身体は、「あっちの世界」と人間をつなぐ、呪術性を帯びた「道具」なのです。」(27頁)


◎「こころ/おもひ/心(しん)」という日本的な心(こころ)の三層構造


 表層の「こころ」。その特徴は「変化する」こと。こころ変わりする、移ろいやすい感情が「こころ」。
 その「こころ」の下に「おもひ」がある。表層の「こころ」を生み出すもとになる、動的な心的作用が「おもひ」。「おもひ」のなかで重要なのが「こひ(恋、乞ひ)」。


「能というのは、この「おもひ」を圧縮した芸能で、そして能を演じるということは、その「おもひ」を解凍していく作業なのかもしれません。そこで解凍された「おもひ」は客席にあふれ出ていき、それがまた観客ひとりひとりの「おもひ」と同期して、そこに何かを生み出す。
 それが能という芸能なのです。」(32頁)
「能の舞において大事なことは、言葉にはならない「おもひ」を伝えること(「どう伝えるか」ではないのでお間違えのないよう)、あるいはその深層にある「心(しん)」を伝えるエネルギーをいかに引き起こすかであって、「振り」には意味は必要ない。いや、必要ないどころか意味があってはいけないのです。意味が付与されたとたん、それは理解可能な「こころ」の領域に属するものになってしまうからです。
 これは芸能としては、とても珍しいことです。」(34頁)


 「おもひ」の奥、もっとも深い層に「心(しん)」が存在する。「芯」に通じ「神」にも通じる、「おもひ」や「こころ」とは異質の神秘的な心的作用。
 言葉や文字を媒介とせず、一瞬にして相手に伝わる何か。以心伝心というときの、そして世阿弥が「心[しん]より心[しん]に伝ふる花」というときの「心(しん)」。


◎「いまは昔」の現象


 能において、時間は独特な流れ方をする。
 シテとワキが出会うと、ワキが生きる「この世」の順行する時間と、「あの世」から来るシテの遡行する時間が交わる。
 シテとワキの会話が盛り上がり、地謡に引き継がれる。二つの時間が渾然一体となる。時間の統合を示す最初の地謡で謡われるのは、シテの思いでもワキのこころでもない。風景である。


「心のメタファーとしての風景ではなく、ただの風景なのです。すなわち、ふたりの思いが風景に流れ出し、心も体も風景も、すべてのものが渾然一体となる。それが謡われるのが最初の地謡です。
 そのとき、「いまここ」が昔になってしまうという、日本の昔話でお馴染みの、「いまは昔」の現象が生じます。」(41頁)


 日本の昔話の語尾に使われる「けり」(「昔、男ありけり」)は、「き(過去)」に「あり」がついた語で、「過去の話であっても、いまここにありありと「ある」」ことを示している。
 「いまは昔」になったとき、そこには時制概念はない。いまと昔が渾然一体となる。そのとき表層の「こころ」は取り去られ、深い「おもひ」の世界と対している。だから、感動(「おもひ」があふれ出ること)の意味を本来的にもつ「けり」が使われていた。
「日本の昔の物語は「おもひ」の世界の言語、すなわち歌のように、感動を高らかに表現していたのです。」(42-43頁)


◎終止しようとしない日本語の特徴


 動詞の連用形が名詞になるという日本語の特徴。「分く」⇒「ワキ」、「こふ」⇒「こひ」のように、「い段」で終わる語は不安定で、いまにも動き出しそうな動的な雰囲気がまとわりついている。


「これは連用形だけのことではありません。日本語そのものが安定や終止を嫌う言語なのではないでしょうか。いまも昔も渾然一体、「あっちの世界」と「こっちの世界」を動き回ろうとする動的な言語。呪術的でもあり、身体的でもある言語のようだと感じています。
 日本の物語や芸能の構造も、終止しようとしない日本語の特徴を受け継いでいます。たとえば浪曲の終わりは、「ちょうど時間となりました」で、話そのものが終末を迎えることなく、次を期待させて終わります。日本の古典も、終末のよくわからないものがほとんどです。」(43頁)