Web評論誌『コーラ』33号のご案内
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●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
第44章 貫之現象学の諸相・総序
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中原紀生
■貫之現象学の由来
これより、貫之歌論(貫之現象学)をめぐる後段の議論に入ります。
そもそも「貫之現象学」という呼称、そしてこれを通じて私が構想し、その
実質を究めたいと目論んできた貫之の歌と歌論の世界は、永井均著『西田幾多
郎──〈絶対無〉とは何か』における「西田現象学」という語に由来し、そし
てそこでの永井氏の議論にほぼ全面的に準拠していました。ここでその原点を
確認し、かつ、初心に立つため、永井氏の議論の骨組みをあらためて概観して
おきたいと思います。
第一、貫之現象学(クオリア篇)。
西田幾多郎が初期には「純粋経験」と呼び、その後は「場所」と呼んだもの
(57頁)。そのような、すべてがそこから始まる「無の場所」に向かう西田の
哲学的探究を、永井均は「西田現象学」と呼ぶ(84頁)。
西田現象学において「あるものを知ることは、そのあるものになること」
(21頁)であり、善や美もまた「主客の合一としてのこの統一作用と別のもの
ではない」(23頁)。
「雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたもので
もよい。元来物と我と区別のあるのではない。客観世界は自己の反影といい得
るように自己は客観世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない。」
(『善の研究』)
純粋経験=直接経験は、たとえば「言葉に云い現わすことのでない赤の経
験」のように、「じかに体験され、意識される生々しい感じ(これを、「クオ
リア」という)をともなう」(40頁)。
永井氏は、そのような「生[なま]の事実」(41頁)を西欧中世哲学にいう
「実存(事実存在)、エクシステンティア」に、これと対になる「論理的推
論」を同じく「本質(本質存在)、エッセンティア」にあてはめている。
デカルトの「われ思う、ゆえに、われあり」においては、「論理的推論と生
の事実、つまり本質と実存は連続している」(41頁)。そして、デカルト以後
の西洋哲学史が「生の事実ではない側を自立させる方向へと展開した」*1]
のに対して、西田は「初発からこの展開を拒否した」(41-42頁)。
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●連載〈心霊現象の解釈学〉第11回●
魔女ランダの亡霊──中村雄二郎における逆光の形而上学
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-11.html
広坂朋信
前回、個人の意識を基準に怪異を叙述する際の難点を指摘したが、それでは
視点を変えて、心霊現象を巨視的にとらえる場合にはどういう問題が考えられ
るのか。このテーマについては、かつてこの連載「心霊現象の解釈学」でも、
円了妖怪学と柳田民俗学を題材にした第7回「妖怪学の衝突」、香川雅信『江
戸の妖怪革命』を題材にした第8回「「不気味なもの」の向こう側へ」でも取
り上げたことなので芸がないと言われればそれまでだが、別の題材によって再
度考えてみることで新たな発見があるかもしれないという淡い期待を抱いてい
る。
今年の夏(2017年8月)に亡くなった哲学者・中村雄二郎氏は、人類学者・
民俗学者の小松和彦氏との共著『死 21世紀へのキーワード』(岩波書店、
1999)で亡霊や怨霊に言及している。私は膨大な中村氏の著作をつぶさに読ん
だわけではないが、おそらく『死』は、中村氏がリアルな亡霊に言及してい
る、かなり希少な一冊である。ここでリアルな亡霊というのは、演劇や文学作
品に登場する役柄としての亡霊ではなく、経験談として語られた亡霊という意
味である。それは、共著者の小松和彦氏が『憑霊信仰論』、『悪霊論』などの
著者だからというサービス精神によるものもあったかもしれないが余計な憶測
はやめておこう。
同書(p96)で中村氏は「私は亡霊というのを人間の心に並々ならぬ力で作
用するヴァーチャル・リアリティーの一種だと考えている」と書いていた。亡
霊とはヴァーチャル・リアリティーの一種だと中村氏は考えていたのである。
これは、私の「心霊学」にとっても考えさせられる論点を含むと思われるの
で、あらためて読み直しておきたい。なお、同書は共著者小松和彦氏との往復
書簡という体裁で編まれているため、必要最低限の範囲で小松氏の発言にもふ
れる。
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●連載「新・玩物草紙」●
杉山平一の推理小説/書物検索サイト
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-37.html
寺田 操
《十七億の人間の指紋が、いちいち違う、といつて、人は驚いているが、も
し同じものがあつたなら、それこそ驚かねばならないのである。この世に、雲
のたたずまい、汚点のかたち、道を行く一匹の犬、何ひとつ同じものはない。
きよう、空に見る雲のかたちを同じものは、もう何千年たつても見ることはで
きない。》
書き出しから引き込まれたのは、まげものスリラー『三つの駕籠』(新関西
新聞/1955・9・11)である。非番の侍が用人部屋で格子越しに月明りを楽し
んでいた。そこへ「ほい」「ほい」「ほい」とかけ声とともに土塀に添って現
われた一挺の駕籠。それから小半時も経たずに、「ほい」「ほい」「ほい」と
また一挺の駕籠。寸分たがわぬ情景に、また「ほい」「ほい」「ほい」のかけ
声とともに現れた一挺の駕籠。いずれも前の駕籠かきの腰がへっぴり腰だか
ら、三挺は同じ駕籠かきだ。何かある、追いかけていけば、ある邸のあたり
で、ふっと消えた。
作者は映画評論、詩、童話とジャンルを横断する表現活動で知られていた杉
山平一氏(1914〜2012)だ。杉山氏が推理小説を数多く発表されていたのを
知ったのは、「杉山平一、花森安治展」――詩人探偵と暮らしの手帖探偵
――」(帝塚山学院同窓会顕彰ホール/20173・3・22〜31)にでかけたことに
よる。杉山氏蔵書の探偵・推理小説の展示を観覧しながら、意外という気がし
なかった。杉山氏の詩には、短詩にも散文詩にも、ミステリー的な要素や謎と
きめいた作品が少なくなかったからだ。
(Webに続く)
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