最後に現われるものが最初から存在する


岡ノ谷一夫『「つながり」の進化生物学──はじまりは、歌だった』(朝日出版社


 岡ノ谷一夫さんのことは小川洋子との共著『言葉の誕生を科学する』(河出ブックス)ではじめて知り(これは名著だった)、つづけて『さえずり言語起源論──新版 小鳥の歌からヒトの言葉へ』(岩波科学ライブラリー)を読んで、「これは使える!」と感銘をうけながら、その後、特段の「使い道」を見つけられないまま今日にいたっている。
 「とにかく面白かった」としか言いようのない池谷裕二さんの名著『単純な脳、複雑な「私」──または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義』と同様、現役の高校生を相手の講義録で、出版社も同じ。それだけで期待がふくらむ。「1回の講義に、本1冊分くらいのネタを惜しげもなく入れて」話をしたと「はじめに」に書いてあるのを目にすると、期待が烈しく高まっていく。
 池谷本の副題をもじるなら、「さえずりから言葉へ、言葉から感情、そして心へ、コミュニケーションの進化をめぐる4つの講義」。


     ※
 以前、山内志朗著『天使の記号学』に「最後に現れるものが、最初にあたかも原因であるかのごとく、いやたぶん実際に原因として存在する」と書いてあったのを見つけて、とても刺激を受けた。
 以来、西欧中世哲学について書かれた書物にでてくるこの命題の適用事例が、さまざまな分野において、とりわけ心や意識や言語の起源を問う文脈の議論のなかでしばしば見られることに驚いてきた。
 異なる領域間での概念や理論の流用には、尋常ならざる慎重な手続きが必要であることは重々承知しているつもりだが、それでもここには文科、理科、その他の細々としたジャンルの区分を超えた何か深甚な理路が潜んでいると思わざるを得ない。
 本書でもこの謎めいたループは、議論のキモにあたる箇所で出てくる。


《情動から歌が生まれ、そこから言語が生まれると、世界は言語によって切り分けられるようになります。言語を生み出した情動それ自体も、言語によって切り分けられ、より複雑な感情が生まれてきます。
 こうして人間のコミュニケーションは、言語と、感情の2つの要素から成り立つようになりました。これら2つの要素は、同じ場面にあっても、必ずしも同じ情報を伝えるわけではありません。》(216-217頁)


 情動→発声→歌→(音の流れの切り分けと状況=文脈の切り分けが協調する相互分節化:143頁)→言語→感情。ここで感情とは分節化された情動なのだから、情動(感情)→言語→感情。すなわち最後に現れるものが、実は最初に存在していた。
 いまひとつ例をあげると、著者は、意識と感情の関係をめぐって次のように語っている。


《僕は、意識は、自分の感情や記憶など、心全体をモニターする仕組みだと考えています。われわれは意識を通して自分の心のありようを知るのだと思う。》(226頁)


 言語→感情→(自己)意識。ここで感情は記憶その他とあわせて「心」をかたちづくる。ところがその心は意識によるモニターの後に知られるのだから、感情(心)→意識→心。すなわち最後に現われるものが、実は先に存在していた。


《自己意識ができる前に、「心の理論」と「ミラーニューロン」という2つのシステムがあった。最初は他人に心があると仮定して他人の行動をうまく予想することが適応的になりました。次に、他人の心を予想するシステムをミラーニューロンで照り返し、流用することで、自分の心を予測するようになったのではないか。
 自分の心は、他者に心を仮定する能力の副産物としてできた。これが、前適応にもとづく心の起源の仮説で、「心の他者起源説」と呼んでいます。》(251頁)


 つまり、意識=心の理論(他者の心を予想するシステム、他者に心を仮定する能力)+ミラーニューロン(他者の行動を自分の行動に変換するしくみ)。この意識のはたらきによって、他人の心=「仮定された心」(概念としての心)が自分の心=「感情や記憶」(なまなましいクオリアを伴う心)へと変換される。ここにも最後に現われるものが最初から原因として存在するというプロセスがみられる。
 最後に、以上を総合する。


《言語が、他者に向けた歌から生まれたように、伝えたいと思う自分自身の心さえも、他者との相互作用から生まれてくる。僕は、心が、コミュニケーションが生み出した、最も重要なものなのではないかと考えています。》(254頁)


 伝えるべき心があるからコミュニケーションができるのではなくて、そのような「伝えるべき心があるからコミュニケーションができる」という事態そのものが、端的には「伝えるべき心」がコミュニケーションによって生まれてくる。ここにもあのループ、あの循環がある。
 まだうまく整理できないが、だいたいこういった話題が本書のキモになる。これはもうほとんど哲学の世界である。


     ※
 そういえば本書には印象的な問いが二つでてくる。
 一つは、講義を聴講している高校生の発言にあるもの。「そもそも、なぜ僕たちは死ぬのが嫌なんだと思いますか。」という著者の問いに答えて、「確かに、人って、この世にいない時間のほうが確実に長いのに、なんで死ぬのが怖いんだろう。生まれる前は存在しないのに。」(81頁)
 もう一つは、世界には約6千の言語があるが、そのほとんどが他の言語に翻訳可能であるのはなぜかというもの。ただし本書(91頁)ではただ事実として異なる言語間の翻訳可能性が述べられているだけで、それをなぜかと問うているわけではない。
 これらの問いは、そこに答えのない問題を感じとる(感じとらざるをえない)人にとっては哲学的な問いになる。解明すべき問い、なんらかの方法によって解明できる問題ととらえる人にとっては、それらは科学の問題である。
 本書にでてくる「哲学的ゾンビ問題」(231頁)も、そこに問題性を感じるか解明すべき謎ととらえるかによって、真正の哲学の問いになったり擬似哲学問題(科学の問題)になったりする。
 著者の問いのたてかた、もしくは問題性の感じ方、とらえ方はこの(哲学的と科学的の)二つの問いの世界にまたがっている。そこが面白い。


 この本の面白さはほかにもある。いくつか備忘録として書いておくと、たとえば、再帰的な演算能力の物凄さについて(84頁)。
 ヘレン・ケラーが初めて世界の事物に名前がついていることを理解したときに起こっていたのは、「AならばB」から「BならばA」(事物=水をさわることでそのシンボル=指文字をつくる)を推論する誤謬推論の能力の獲得、つまりシンボルと意味の対応関係を両方つくることだった(138頁)。
 言葉の超越性、すなわち過去、未来、地球の裏側のことも言えること(99頁)。
 音の流れを切り分けること、文脈を切り分けること、シンボルと意味との対応が双方向的であること、これらの性質が、言葉のはじまりにとって大切だったこと(139頁)。
 相互分節化仮説。歌を切り分ける大脳基底核の働きと、状況(文脈)を切り分ける海馬の働き、このふたつの働きがうまく協働して、人間は言語を獲得した(142頁)。