誰が語っているのか


ル・クレジオ『物質的恍惚』(豊崎光一訳,岩波文庫:2010.5.14)


 昔、たぶん大学生の頃だったと思うが、アンリ・ミショーの詩やデッサンに強く惹かれていた時期があった。小海永二氏の著書か訳書を何冊か買い求めたような気がするのだが記憶が不確かで、詩集『みじめな奇蹟』を所持していたかどうかも思い出せない。
 もしやと思って検索してみると、千夜千冊の977夜が『砕け散るものの中の平和』をとりあげていた。「アンリ・ミショー! あれは、未詳。あられな、三娼。あんぐり未詳の、稀少倶楽部の、みせう、未詳。」
 とくに共感したのは次の文章。というのも、私はミショーのメスカリン詩よりメスカリン・デッサンの方により強く惹きつけられていたからだ。


「ぼくははっきり告示することができるのだが、ミショーのドローイングこそは真の意味での図象文字であり、神経の運動知覚記号そのものであるにちがいない。」


 アンリ・ミショーのことを思い出したのは、『物質的恍惚』の文庫解説「ル・クレジオの王国を統べるもの」で今福龍太氏がル・クレジオのミショーへの傾倒について書いていたからだ。
「ミショーとル・クレジオは、言語意識の彼方からの異形の声に耳を澄ませ、客体としてのかたちを失った世界の無限定の輪郭を凝視しながら、詩的言語を介して社会への敵意・呪詛を語り、物質的凝集への陶酔感を描きだす衝動を共有していた。」(446頁)
 今福氏はつづけて、両者に共通する「二つの相関し合う、創造に向けての実験的主題」があったと書く。
 その一は「麻薬体験による意識の拡張・深化への真摯な探究」。「やや大胆にいえば、『物質的恍惚』という前−言語意識の究極の探究を頭脳のなかで完遂したル・クレジオにとって、インディオの幻覚性植物との出遭いは、ほとんど宿命として約束されたものであり、書きつづけるための唯一可能な道程でもあった。」
 その二は「言語の極北、具体性と観念の一体化への究極の試み」(448-449頁)で、それはまさに『物質的恍惚』がそのクライマックスにおいて到達しようとするものであった。
 今福氏の解説は力のこもった長編論考で、これを読むためだけにこの文庫本を買ってもいいほどの出来映えだと思う。(豊崎光一氏の「訳者のことば」もこれに負けず劣らず素晴らしいものだった。)


 本書は序章「物質的恍惚」、本篇「無限に中ぐらいのもの」、終章「沈黙」の三つからなる。誕生−生−死。今ちょうどその本篇を構成する9つの文章のうち最後の「鏡」の直前まで読み終えたところ。
 感想めいたものはまだかたちをなさないが、漠然と頭をよぎっているのは、(あたかも『ドクラ・マグラ』の巻頭で「胎児よ/胎児よ」と歌う歌い手のような)この書物の語り手はいったい誰なのか、そして誰もしくは何にむかって語っているのかという疑問だった。
 それは、つまり『物質的恍惚』の語り手たる「ぼく」とは「集団的なエクリチュール」(454頁)もしくは「匿名の、集合的な声として織り上げられた神話的思考」(455頁)のことなのだと、今福氏ならそう答えるだろうか。
ロートレアモンやミショーとならんで、レヴィ=ストロースの著作[『野生の思考』や『神話論理』全四巻]のなかにも、ル・クレジオは集団的なエクリチュールの夢を探究するための道標を、確かに発見していたのだった。」(454頁)
 あるいは、今福、豊崎の両氏が共通して引用している「ぼくは他人たちの考えでもって書く」(112頁:それぞれ415頁と453頁で引用)のうちにそのヒントが潜んでいるのだろうか。


 語りとともにそこで語られる当の世界が(物質的に)出現し、その世界に向かって語りつづける声が当の世界のなかに(物質的な声として)響きわたってゆく。
 それは神ではないか。語っているのは神なのではないか。そのような語りを語るもののことを神というのではないか。
 それは言語なのではないか。語っているのは言語そのものにほかならないのではないか。
 言語以前のことが、精確には物質(声、書痕)としての言語以前のことが、端的に言えば誕生以前の世界、そして死の世界が、今福氏の使った語彙を借用すれば「前−言語的欲動」(455頁)をもって語られる。
 今福訳によるミショーの『氷山へ』の一節が、その答えを示唆しているのだろうか。


《それは言葉なのだろうか? 言葉とはなんなのか、イメージとは、観念とはなんなのか、ぼくにはもうよくわからない。いや、それは物質なのだ。それは輝き、おのれの力による重みを持ち、静かで美しく、どこからでも見える。それは隠しごとのない記号、明るいデッサン、踊る肉体、叫び、鵜のゆったりとした飛翔、氷河の海をすばやく横切る鮫、遙かに雪を戴いた尖峰、峡谷、船の航跡、エンジンからたなびく煙、そして砂の上に残された足跡。》(「ル・クレジオの王国を統べるもの」450頁)
 

 それは物質なのだ。語っているのは物質なのだ。クオリアは少なくともその身の半分が物質の領域に属している。


     ※
 石井洋二郎著『告白的読書論』に、「わたしたちはその「わからなさ」をそのまま受けとめ、そこにうごめいている言葉のエネルギーに身をゆだねればそれでいいのである。ニーチェランボーが「わかる」というのはそういうことだ。」と書いてあった。
 「わからなさ」に身もだえしたわけではないし、賢しらに「わかる」を連発したいとも思わない。わかる、わからないの次元が違う世界に誘われたという思いが強く残っている。語っているのは誰なのか。書いているのは誰もしくは何なのか。
 『物質的恍惚』を読み終えたいま、ル・クレジオの言葉のエネルギーに身をゆだねきった希有の経験を記憶に深く刻みこむため、厳選した一つの文章をここに記録することしか思いつかない。(厳選することなどほんとうはできない。最後にドッグイヤをつけた文章を転記した。)


《言語の彼方、意識の彼方、すべて形であって生きていたものの彼方に在るのが、全的な物質、生[なま]の物質、目的なくそれ自体に委[ゆだ]ねられた物質の拡がりだったのだ。ぼくの自我の彼方、ぼく個人の真実というプリズムを越えて、自己を表現しようとしないこの世界があったのだ。ぼくが生きているかぎり、ぼくが見ているかぎり、ぼくは何ごとをも知りえまい。ぼくが感じることすべては、虚偽であるのではなく、まぼろしであるのではなくて、在るものではないだろう。ぼくが母のほうへ回帰しようとしても空しい、母はぼくを迎え入れはしないだろう。母は生きているぼくなどいらないと言うだろう。母がぼくを受け容れてくれるのは、ぼくがもはや何ものでもないときにすぎまい。それが母の掟[おきて]なのだ。》(「沈黙」348-349頁)