小説の物語


ウラジミール・ナボコフナボコフの文学講義 上』(野島秀勝訳,河出文庫:2013.01.20)


 昔、阪神淡路大震災よりも数年前に読んだマヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』が面白かった。(1992年9月以降に読んだ本は記録しているが、蜘蛛女はそこにでてこない。)
 千夜千冊の270夜に、「この小説は映画の物語なのである。映画のような小説なのではなく、映画を見るということそのもの、映画を語るということそのものを取りこんだ小説なのだ。映画に体感エクリチュールというものがあるとすれば、その体感エクリチュールが文学になったといえばいいだろうか。」とある。


モリーナが『千夜一夜物語』よろしく、毎晩、続きもののように、映画の物語を聞かせるわけなのだ。語られる映画は6本にのぼっていて、そうとう細部まで語られる。そればかりかモリーナは脚本家の立場、監督の立場、批評家の立場をすべて引きとって、しかも役者にもなってみせている。バレンティンはその語りの中へ入っていく」


 モリーナとバレンティンホモセクシャルな関係にある男たちで、ブエノスアイレスの監獄にいる。
 というようなことはこの際あまり関係がなくて、『ナボコフの文学講義』を読み進めながら、この「映画を語ることそのものを取りこんだ小説」のことを、その無類の面白さの「体感エクリチュール」を思い出していた、そのことを忘れないように書いておきたかった。


 いまちょうどジェイン・オースティンの『マンスフィールド荘園』をあつかった最初の講義を読み終えたところ。未読の小説なのにかつて味わった感銘(体感エクリチュール?)を反芻する再読の愉悦に浸っているような、どこか倒錯した快楽に陶然となっている。
 個人的な体験でいえば、私にとって映画を観ることはつねに、経験したことのない過去の出来事や心象風景を想起することであり、そして観終えると同時にそれらはまた二度と再び再現できない忘却の彼方に消失してしまう。ちょうどそれと同じことがいま生じているわけだが、ただひとつ違うのは、その経験が文章によってもたらされたものであるということだ。
 そういえばオースティン関連の映画は、「ジェイン・オースティンの読書会」(ロビン・スウィコード監督)と「プライドと偏見」(ジョー・ライト監督、キーラ・ナイトレイ主演)を観た。いずれも印象深いものだった。ただしそれらの映画を構成する細部の映像は二度と再び再現できない忘却の彼方に消失し、それらの映画を観ていたときの「体感エクリチュール」は着地点を見出せないまま虚空を漂っている。


     ※
 上巻を読み終えた。
 オースティン(『マンスフィールド荘園』)の陶酔のあと、ディケンズ(『荒涼館』)で少し道に迷い、フロベール(『ボヴァリー夫人』)では圧倒された。


フロベールがこう論じてもらいたいと思っていたように、ここで『ボヴァリー夫人』を論じてみたい。つまり構造(彼はこれを「運動[ムーブマン]」と呼ぶ)、主題の糸、文体、詩、それに人物の点から論じることにする。」(「ギュスターヴ・フロベール」310頁)


 とりわけ構造と文体が肝要だ。そして技法。
 たとえば、オースティンの「ナイトの動き」(167頁)や「独特のえくぼ」(169頁)、ディケンズの「物語の動かし手」や「かたつむり(perry)」(249頁)、そしてフロベールの「対位法的手法」(347頁)や「構造的移行」(355頁)、等々。これらのナボコフ語による技術論に説得力がある。
 小説にとって大事なことをめぐるナボコフの言葉も印象深い。


「なによりも細部に注意して、それを大事にしなくてはならない。」(「良き読者と良き作家」53頁)
「文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年がすぐうしろを一匹の大きな灰色の狼に追われて、ネアンデルタールの谷間から飛び出してきた日に生まれたのではない。文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかいなかったという、その日に生まれたのである。」(「良き読者と良き作家」61頁:池澤夏樹氏の「解説──精緻な読みと巧緻な作り込み」でも引用)
「文学とはこういうつまらぬもの[ディールの海港の描写]から成り立っているのだ。事実、文学を成り立たせているのは、一般的な観念ではなく、個別的な啓示なのである。」(「チャールズ・ディケンズ」287頁)


 学生への試験問題の見本が「付録」に掲載されている。
 『荒涼館』に関する第3問、「『荒涼館』の構造と文体について論ぜよ」。
 『ボヴァリー夫人』の第5問、「『ボヴァリー夫人』のなかには、「馬」「石膏細工の司祭」「声」「三人の医師」といった数多くの主題の糸がある。これら四つの主題について完結に記せ。」
 同第7問、「「そして」という言葉をフロベールがどのように使っているか論ぜよ。」
 こんな切り口や視点で小説を読む!