恋歌と恋文、音の韻と字の韻・読後談(その2)


石川九楊『日本の文字──「無声の思考」の封印を解く』(ちくま新書
松木武彦『進化考古学の大冒険』(新潮選書)
養老孟司『身体の文学史』(新潮文庫


 『日本の文字』の読後談をもう一つ。
 石川九楊氏は、「文字とは話し言葉を記すためのたんなる記号ではなく、ひとつの文、文体をつくり支えるもの」(10頁)と定義した。文体は「詩体」(203頁)に通じ、集団、社会、国家、ひいては文明の「かたち」に通じていく。


 『日本の文字』に触発されて、松木武彦著『進化考古学の大冒険』の最終章「文字のビッグバン」を読み返してみた。実に面白い。
 文字がなぜ誕生したか。誕生した文字がヒトの心や行動、社会をどう変えたか。
 文字の使用には法典(制度、規範)と史書叙事詩(集団のアイデンティティ)と教典(神の物語)の三領域があること。
 まぼろしに終わった「弥生文字」(銅鐸や土器の表面などに描かれた文様が記号化したもの、シカ=三日月形、龍=S字形、呪術者=I字形など)があったこと。
 六世紀から七世紀前半にかけて、「文字にもとづく世界宗教としての仏教」(243頁)の経典の伝来とともに、日本列島の文字社会化が進行し、その結果、五世紀なかばすぎに頂点に達していた「古墳という民族モニュメント」(245頁)の衰退がもたらされたこと。
 この話題は「ヒトはなぜ巨大なモノを造るのか」の章にダイレクトでつながり、それはまた「狩猟革命と農耕革命」の章の話題につながり、そうこうしているうちに関心は「美が織りなす社会」の章の「ホモ・エステティクス」の話題に飛び火する。
 で、結局、全体をざっと再読することになった。実に面白い。


「モニュメントは、そこで行われる儀式などとともに、人びとの心の動きに直接訴えることを通じて、集団のまとまりを保つ「われわれ意識」を高揚させ、そのアイデンティティを強める機能をもっている。
 文字を用いた制度によって人びとのまとまりを保とうとする、いわゆる国家の段階になると、モニュメントはその役割を後退させ、小さく地味になって、やがては作られなくなる。」(『進化考古学の大冒険』180-181頁)


 この文章を読みながら、私はふと古今和歌集は無形の人工物で、その編纂は文字によるモニュメント建立の企てだったのではないかと思った。
 松木氏は、「形はなぜ変化するのか」の章で、物の形の三段階、「フォーム」(物理的な機能を担う)と「スタイル」(社会的な機能を体現する)と「モード」(スタイルの形の規則をこわさない範囲での細部の形状やデザインの変化)の区分をたてていた。
 この議論を「詩体」とりわけ「歌体」の分類に応用するとどうなるか。


     ※
 世界は表現だといっていい。これは、養老孟司著『身体の文学史』の「表現とはなにか──あと書きにかえて」の書き出しの言葉。
 文学、絵画、音楽、法律、制度、都市、そして考古学が研究対象とする人工物、それらはすべて意識の表現である。それらは意識の外部への定着手段であって、かならずしもたがいに排除するものではない。


「ただし、たとえば都市と文学はなぜか矛盾するらしい。秦の始皇帝万里の長城を築くが、焚書坑儒を同時に行う。立派な建造物は必要だが、本はいらないというのである。始皇帝陵の発掘で知られる驚くべき規模の遺跡は、建築型の意識の定着法と、文字型の意識の定着法とが、たがいに抗争することを示すように思われる。西方では、エジプト人のピラミッドと、ユダヤ人の旧訳聖書の差を思えばいいであろう。どちらを採るか、そこにはおそらく無意識が関与しているに違いない。」(新潮文庫『身体の文学史』206頁)


 この議論は、そのまま進化考古学の話題につながっていく。