橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』

 ようやく一つ、「棚卸し」ができた。
 読みかけのまま放置している本が一杯あって、気になってしようがない。『時間はどこで生まれるのか』の関連本では、去年の2月に同時に買って、いまだに読み切っていないのが三冊ある。内井惣七『空間の謎・時間の謎──宇宙の始まりに迫る物理学と哲学』と川合光著『はじめての〈超ひも理論〉──宇宙・力・時間の謎を解く』、それから、心身問題は時間問題の一ヴァージョンだとすれば、河野哲也『〈心〉はからだの外にある──「エコロジカルな私」の哲学』。
 心脳関係系の本だと、リストをつくるのがちょっとこわいくらい。その他にも、さくさくと読むつもりで買って、どういうわけか半分ほど読んでそのままになっているのが、まだまだたくさんある。こつこつと、ヒマをみつけて「つぶして」いこう。


 本書に、相対論では時間は実数で空間は虚数だと書いてあった。これを見て、先日読んだ内田樹さんの「複素的身体論─無敵の探求」(『身体のレッスン3 脈打つ身体』)を想起した。
 合気道は敵を倒すものでも、敵の力を利用する術でもない。私と他者(敵)という図式ではなくて、私と他者(敵)が一つの身体となる境位を探求するものだ。そのような身体を「複素的身体」という。
 それから、本書に出てくる「意思」は、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を連想させた。著者は、現代物理学をふまえた斬新な哲学的時間論の登場を期待して本書を著した、と書いている。でも、その現代物理学は、ショーペンハウアーの哲学のうちにすでに胚胎していた。
 これらのことは、想起、連想にとどまって、その後の発展がない。


     ※
 なぜ時間には過去から現在へ、あるいは未来から現在へという「流れ」があるのか。つまり、「今現在」に依存する主観的な時間(マクタガートA系列)はどこで生まれたのか。また、なぜ時間には先後関係という「向き」があるのか。つまり、歴史年表のような客観的な時間(B系列)はどうやって成り立ったのか。
 これらのことを解明するため、著者はまず、相対論と量子論の成果をもとに、次の前提条件を導き出す。ミクロな量子系に時間は実在しない。時間はマクロな相対論的世界のどこかで生まれている。
 そこでは、事象は、過去・現在・未来といった様相や時系列のうちにあるのではなく、数列のように一覧表として並んでいる(C系列)。「われわれの宇宙(時空)がC系列であるとすれば、宇宙はただ存在するだけである。そこには、空間的拡がりや時間的経過というものはない。」(116頁)


 このような客観世界(C系列一覧表世界)にあって、エントロピー増大の法則に反し、自らの秩序を維持するものが存在する。生命である。主観的時間は、この生命の進化を通じて、刹那刹那──「生命個体が外部世界からの干渉を受けて、自らの行動を決断する、その刹那刹那」──において秩序を維持しようとする生命の「意思」の力によって、創り出される。
 まず、エントロピー増大の法則による外の世界からの干渉(秩序を壊そうとする外部の圧力、「意思」が進化するための自然選択の圧力)が、すでにそこにある変更不可能な「動かせない過去」である。
 それに対して、進化の結果である「意思」をもって、考えうる多くの選択肢の中から秩序維持という唯一の解を選ぼうとするのが生命である。「こうして、[結晶や竜巻のような]単なる自己増殖機械にすぎなかった初期の生命は、やがて本当に生きることになるのである。」(126頁)
 また、明確な「意思」の存在が生命に、外圧に逆らって秩序を維持する自由、つまり未来をもたらす。「生命が時間性の中に生きるとは、そういう意味である。」(127頁)


《以上のことから、われわれが常識的にもっている時間概念[A系列とB系列]は、まずA系列から生まれたことがわかるであろう。
 それは、刹那刹那の「意思」が創り出すものなのである。
 もちろん、ここでいう刹那とは、点状の測定できないような短い瞬間のことではない。すでに見てきたように、ミクロの世界では、時間さえが実在ではなくなる。生命個体が外部世界からの干渉を受けて、自らの行動を決断する、その刹那刹那ということである。》(133-134頁)


 さて、もし、この主観的時間を創造している刹那刹那の「意思」が、自分の意思決定を「記録」する手段をもつならば、一連の「意思」は、あたかも川の流れのように一つにつがることになる。「こうした記憶を得た生命は、誕生から死へとつながる一連の自己という意識をもつようになるだろう。」(136頁)
 実際、人間の脳の記憶領域には、これまでの「意思」の「記録」が順番に配列されている。「こうしてわれわれは、今現在の「意思」の中に過去の記録の配列を見る。この配列こそが、B系列の時間にほかならない。」(136頁)


《実在とは何かは、われわれには不明のままである。しかし、われわれの理性(物理学)は、思考と実験の繰り返しの中から、この宇宙がミクロな様相はもちろん、マクロな様相においても、相対論的C系列の構造をもつことを見出してきた。C系列は一覧表であり、もっと比喩的にいえば一枚の絵である。宇宙は、ただそのように存在するだけである。
 にもかかわらず、われわれ生命は、その絵の中に主観的時間を創造した。これはいってみれば、ただの絵の中に飛び込み、その刹那をこじあけ、そこに創造の自由を得ることである。われわれは、ささやかではあるが、未来の宇宙をどうするかの自由をもつ。すなわち、われわれは宇宙の創造に参画しているのである。これは驚異としかいいようがない。
 宇宙はただ存在するC系列なのに、われわれにとってはまだその絵が完成していないように見えるのは、不思議ではない。われわれの「意思」は刹那にしか存在せず、しかもその刹那は誰とも共有できない、時空の一点の事象にすぎないからである。「意思」はその狭い刹那の時空に生きているのであり、そこには過去も未来も、他の空間も存在しない。
 驚異なのは、そのような「意思」が誕生したことである。時間を創造し、そこに「生きる」という自由を得た存在が、現に存在することである。
 それゆえ、われわれはこう断言できる。
 時間の創造は宇宙の創造であり、われわれはそれに参加しているのだ──と。》(138-139頁)


     ※
 面白い本だった。上の「要約」ではほとんど取り上げなかった前半、第一章から第五章までの物理学を中心とした議論と、付録によるその補強、とりわけエントロピーの法則をめぐる叙述は、自然科学の啓蒙書として抜群の面白さだった。参考文献解説も読みごたえがあった。
 ただ、後半、本書のキモとなる第六章と第七章の議論での、C系列からA系列へ、A系列からB系列へという時間誕生の理論は、なるほどと思わせられはしたけれども、心底説得されなかった。


 たとえば、生命が自己の秩序を維持するのは「意思」の力によるもので、この「意思」の力は生命進化によってもたらされた、と著者は主張している。
 でも、それは、(結晶や竜巻のような物質=自己増殖機械が従う自然法則とは異なる法則のもとで)自己の秩序を維持する存在があって、それを生命と呼び、そのような秩序維持をもたらす力とか構造のことを「意思」と呼び、そうした意味での「意思」をもった生命が生み出されてきたことを生命進化と呼ぶ、というのと変わらない。そこには、何も新しい知見や仮説や理論は含まれていない。
 また、刹那刹那の「意思」の力によって主観的時間が創り出されたというけれども、それもまた結局のところ、「自然選択の圧力が、機械から自由意思をもつ存在へと、生命を進化させ」、「そうして、時間の向きや流れもまた、この進化の過程の中から生まれたに違いないのである」(119頁)という主張の言い換えでしかない。「心は脳から生まれた」というのを、「心は刹那刹那のニューロンの結合から創り出された」と言い換えるのと同断である。
(ただ、これは後で述べることと関連するが、刹那刹那の「意思」の力によってA系列の時間が生まれ、その「記録」からB系列の時間が生まれるという考え方は、進化論という理論自体が、そのようなプロセスを経た後に生まれてきたことを含意しているわけで、だとすると、著者の主張は、進化論が説明する世界の内部に、当の進化論自体の誕生のプロセスが入れ子式に含まれている、ということに帰着する。「心は脳から生まれた」という議論自体が、刹那刹那のニューロンの結合から産み出されているのと同断だ。これは、とても面白い。)


 もう一つ加えると、刹那刹那の意思決定の「記録」が人間に「自己という意識」をもたらす、と著者は書いている。この「自己という意識」は、B系列の時間概念のうちにあるもので、それに先立つところの、過去・現在・未来というA系列に属する「主観的」な時間概念(時間体験というべきか)が帰属するはずの「意識」というものが考えられるはずだが、それはいったいどういうもので、また、いかにして生まれてくるのだろう。
 そもそも、刹那刹那の「意思」の力によって主観的時間(A系列)が創り出されるというとき、そのようなことを(自らに生じた体験として)語りうるのはいったい誰なのだろう。「意思」の「記録」がもたらす「自己という意識」がそれである、というのでは答えにならない。なぜなら、それはB系列の時間のうちにあるものなのだから。
 著者は、「われわれがこうして時間について考え、A系列、B系列、C系列などの時間を想起できるのも、その元をただせば、われわれが意識するとしないとにかかわらず、刹那刹那で時間を創造している「意思」とその「記録」のおかげなのである」(137頁)という。
 この「われわれが意識するとしないとにかかわらず」がくせ者だが、そこでいわれる意識は、おそらくB系列の時間が成立した上ではじめて成り立つもの(「自己という意識」の同類)のことだろう。そして、「A系列、B系列、C系列などの時間を想起できる」のは、そのような意味での意識においてのことだろう。
 だとすると、ここに、原初のA系列と、B系列の上に成り立つ意識によって「想起」されたA系列の二つがあることになるが、その原初のA系列の時間を体験する「意識」などというものはあり得ず、またそれをB系列の上に成り立つ意識でもって「想起」することなどできない、ということになりはしないだろうか。
(原初のA系列の時間を体験する「意識」というものがあって、それが実は「意思」なのだ、と考えることができるかもしれない。しかし、そのような意味での「意識」もまた、生命進化の結果として生まれたものである。こうして、議論は振り出しに戻ってしまう。そして、ここにもまた、進化論をめぐる入れ子式もしくはウロボロス状の錯綜が発生する。面白い。)


 私は、本書後半の議論は間違っているとか、欠陥があるといいたいのではない。時間の謎は、本書でもついに解明されなかった。謎は謎のまま残った。でも、時間の謎がはらんでいた「驚異」の実質はより鮮明にされたのではないか、といいたいのある。
 たとえば、本書後半の議論のうち、強く興味を引かれたのは、A系列における「過去」の定義(外界からの干渉、外圧)と、「意思」の「記録」というアイデアだった。
 私はこれを、A系列の「過去」とは物質で、物質との界面(刹那)における行為によってA系列の「今現在」(永井均の表記法を使って〈今〉や〈私〉といってもいいし、〈クオリア〉といってもいいと思う)が生み出され、その「記録」を読み出すこと(記憶語り)を通じて「自己という意識」(同様に《今》や《私》といってもいいし、《志向性》といってもいい)が生み出される、と読んだ。
 そして、著者(橋元氏)が論じたA系列の時間を永井均の「開闢」の世界に、B系列の時間を「開闢の奇蹟が開闢の内部の一つの存在者として位置づけられている」世界(進化論が説明する世界の内部に進化論誕生のプロセスが入れ子式に含まれている…)に関連づけて読んだ。
 途中の説明と論証抜きに極論を述べると、世界を説明する言葉の生成(「自己意識」もしくは「クオリア+志向性」)と、その言葉によって説明される世界の創造(「記録」)とが切り離せない、そのような「世界の実相」(意思=意志としての世界)に迫る途方もない議論が、ここから始まるかもしれない。