立川武蔵『仏とは何か』

 立川武蔵著『仏とは何か』(講談社選書メチエ)を読んだ。
 講義録「ブッディスト・セオロジー」の第三巻。第一巻「聖なるもの 俗なるもの」と第二巻「マンダラという世界」は、昨年三月、四月と続けて刊行された際に買い求め、全五巻が出揃ってからまとめて読もうと思って、摘み読みもせずに大事にとっておいた。
 同じ選書メチエから出た、中沢新一さんの講義録「カイエ・ソバージュ」全五巻は破格の面白さだったけれど、なにしろ半年ごとの刊行だったものだから、欲求不満が募った。こんどはどうやら毎月出るようだから、少し辛抱すれば、一気読みができる。そう思っているうち、一年がすぎた。
 今後の予定を見ると、第四巻「空の実践」が八月、第五巻「ヨーガと浄土」が来年の四月となっている。それまで待てない。長編小説を佳境に入ったところから読み始めるみたいで、ちょっとためらいはあったけれど、思い立ったが吉日、とにかく読んでみた。


 宗教とは「聖なるもの」と「俗なるもの」との区別を意識した合目的的行為である。すべての宗教行為は世界認識(世界観)、目的(目標)、手段(実践)の三要素を含んでいる。
 本書では、マンダラという仏や菩薩の住む世界の中に示されている、仏教における行為の目的・目標が、「ホーマ」(バラモン教ヴェーダ祭式=護摩)や「プージャー」(ヒンドゥー教儀礼=供養)などの宗教儀礼、仏塔(涅槃のシンボル、世界=宇宙、ブッダの身体、立体マンダラの四つの意味をもつ)や仏像といった宗教シンボル、そしてバクティ(帰依)等々の宗教行為をめぐる詳細な叙述を通じて、具体的に考察される。
 また、宗教には時代の状況に対処して進む自覚的な方法があり、それをセオロジカル(神学的)と呼ぶならば、仏教にもそういった自覚的な歩みがある。原始仏教から、密教(世界の内なる仏=大日如来)や親鸞浄土教(世界の外なる仏=阿弥陀仏)まで、ゴータマ・ブッダの悟りと思想を根底に据えながら、仏教は、一つの生きものように「神学的」な歩みをおこなった。
 本書では、初期における偉大なる師としてのブッダから、ジャータカ物語(ブッダの本生物語=過去生物語)を経て、「ペルソナ」(人格)をそなえた神的存在として人と交わる、大乗仏教における仏たち(阿弥陀と大日)に至るまで、仏のイメージの変容と、それをもたらした仏教思想の変革の過程を、仏教美術の変遷や経典の読解を通じて、これもまた具体的に語られる。


 仏教の思想と実践をめぐる「セオロジー」の部分、とりわけ「ペルソナ」としての仏をめぐる議論に多大な関心と期待を寄せながら本書を読み始めたものだから、最初のうちは、時に煩瑣とも思われる事実の列挙に味気ない思いを拭えなかった。
 しかし、宗教という、個人的、集団的、いずれの相においても生々しい人間的営みについて考えるとき、数千年、もしくは数万年に及ぶ人々の思いと行いがかたちづくってきた具体的な歴史への敬意と洞察を抜きにして、空理空論の世界に遊ぶことなど無意味だろう。
 本書を読み進めていくうち、とりわけ第七章「ジャータカ物語と仏の三身」から第八章「大乗の仏たち──阿弥陀と大日」、そして、本書を総括しつつ第四巻の主題(空の思想)へとつないでいく第一○章「浄土とマンダラ」へと頁を繰っていくうちに、具体的な相における比較と変遷を、繰り返しを厭わず淡々と綴っていく著者の語り口に、すっかり魅了されていった。


     ※
 記録しておきたいことはたくさんあるが、ここでは、三身仏の思想、もしくは「ブッダの三つの位態」(219頁)をめぐる思想に関して、キリスト教の三位一体説(神の三つの位格)と比較しながら述べられた箇所を、抜き書きしておこう。


三身の思想は、初期大乗仏教の時期、四世紀に確立されたと考えられます。三身とは、法身〔ほっしん〕、報身〔ほうじん〕、化身〔けしん〕というブッダの三種の身体(身)をいいます。この三つの身体を有する仏は、それぞれ法身仏、報身仏、化身仏と呼ばれます。第一の法身仏とは、法そのものを姿としている仏という意味です。法そのものにはすがた、かたち、さらには色や香りもありません。したがって、法身仏つまり「法を身体としている仏」とはいいますが、われわれの目に見えるような肉体を持ったブッダのことではありません。
 第二の身体、つまり報身仏とは、サンスクリットでは「サンボ−ガ・カーヤ」です。「サンボ−ガ」とは、享受のことであり、「カーヤ」とは身体です。「サンボ−ガ・カーヤ」とは「〔自らの修行の結果を〕享受するための身体」という意味です。修行をして、その修行の結果として悟りに至り、そして衆生を救うのですが、その衆生を救う行為が、それまでの修行の結果を享受することと解釈されているのです。ブッダつまり覚者となった存在が衆生のために働いているすがたが、「修行の結果をわが身に受けるための身体(報身)」と考えられました。そのような身体を有する仏が報身仏(サンボ−ガ・カーヤ・ブッダ)です。誰かの恩に報いるというように読めますが、そういう意味ではなく、報いを楽しむための身体というような意味になります。「受用身〔じゅようしん〕」ともいわれますが、こちらの方が的確な意味を表しているかもしれません。この報身仏は、歴史的な肉体を持った仏ではありません。ただ、この仏には、すがた(イメージ)と働きがあります。
 第三の化身仏とは、歴史の中で肉体を持ったシャーキャ・ムニ(シャカ族の聖者)です。彼は歴史の中で実際に肉体を持つことのできた存在です。つまり受肉したすがたを採ったブッダです。今日のチベット仏教における活仏という考えは、肉体を持ちながら法そのものを体現したという意味から生まれており、一方で化身という言葉も用います。たとえば、ダライラマが観音の化身であるというのは、肉体を持っているというところにポイントがあるのです。
 いささか乱暴ないいかたですが、この法身仏、報身仏、化身仏は、キリスト教における父と子と精霊に相当します。天が法身に当たり、子が化身に当たり、報身が精霊に当たると一応はいうことができましょう。(略)


 このような仏のイメージの典型を浄土教において見ることができます。つまり、法蔵菩薩(比丘)が修行の結果、阿弥陀仏となったという神話が『阿弥陀経』や『無量寿経』という浄土教の経典に語られているのです。この神話はシャカ族の王子シッダールタが出家の後、悟りを開いたという歴史的事実を踏まえています。しかし、その阿弥陀仏にはシャカ族の王子であったという歴史的要素はすでにありません。阿弥陀仏とは、聖性の度合いをより一層強めた存在に昇るために、あるいは乗せるために、シャーキャ・ムニの生涯における歴史的な個差を切り捨てた、すなわち、数学的にいえば微分をした姿であると考えられます。(略)
 ……三〜四世紀以降、大乗仏教は、ゴータマ・ブッダのイメージを変化させ、阿弥陀仏(無量光、無量寿)などの多くのブッダの像を生みました。浄土教においては、一般にこの阿弥陀仏は報身と考えられております。報身は歴史的な存在ではありませんし、肉体を持ってはいませんが、イメージを持ち、働きを持つブッダと考えられているゆえに、仏のすがたの変容を考える際大きな役割を果たします。》(142-145頁)


 後段の浄土教について書かれた箇所に関連して、「『阿弥陀経』や『無量寿経』に描かれている浄土の様子は、すこぶる視覚的なものである」(171頁)云々と、「神の図像化」もしくは「「聖なるもの」のヴィジュアル化」を論じた箇所も面白い。
 また、浄土(世界の外への遠心的方向=「脱自的方向」)とマンダラ(世界の内への求心的方向=「保身的方向」)を、空の思想における自己否定とその後のよみがえりに関係づけている、本書末尾の議論も面白い。このことは、宗教実践を主題とするシリーズ第四巻以降で述べられるという。刊行が待ち遠しいが、それまでに、第一巻、第二巻をちゃんと読んでおかねば。