『いきなりはじめる浄土真宗』

物質と記憶』の独り読書会は今日はお休み。
このところにわかに私生活が多忙をきわめるようになり、ろくすっぽ活字を読む時間がとれない。
久しぶりの休日も、お持ち帰りの仕事が気になって、思うように時間を使えない。
あと一月ほど、この状態が続く。
せっかく「毎日更新」を継続しているこのブログも、いつまで持つかわからない。
せめて百日まではがんばってみたい。
千日行ならぬ百日行。
それも危うい。


昨日とりあげた『日本仏教史』の文庫解説を橋本治が書いている。
「原因があってこその結果である」という考え方こそ仏教の根本だ。
解説の最後に出てくる言葉だが、これは本当のことか。
内田樹釈徹宗両氏のネット上の往復書簡をまとめた『インターネット持仏堂1 いきなりはじめる浄土真宗』(本願寺出版社)を眺めていると、釈氏の次の言葉が目を引いた。

仏教は因果律に基づいています。いかに仏教にバリエーション多しといえども、これだけははずすわけにはいかないっ、というほどの「仏教における基本的立脚点」です。因果律とは、「あらゆる現象や存在には、原因がある。原因があれば必ず結果がある」という原則です。この法則に例外はない、ということで仏教は成り立っています。因果律の立場もいろいろあるんですが、仏教の因果律は〈縁起〉という相互依存性を強調するところに特徴があります。(14頁)

これは、内田樹の問いかけ──「縁」とは「自由」の(反対概念ではなくて)「対概念」である、縁という宿命的なものに媒介されてはじめて人間は自由が何であるかを覚知するのだし、自由な人間しか縁を覚知することができない、こういう考え方について釈先生はどうお考えになりますか(11頁)──に応えたものだ。
「縁は自由の対概念。この言葉だけでも、これからすごい話が展開されそうな予感がヒシヒシと伝わってきます。でも、なんか、もう、意外な出だしですねぇ」と釈氏のコメントあり。
ほんとうに「すごい話」が展開されそうでワクワクする。