『はじめたばかりの浄土真宗』

昨年どういうわけか読み損ねた本のなかで、『インターネット持仏堂』は最上級で気になっていたものだ。
昨日、近所の図書館で二冊そろったのを見つけ、後ろめたい思いを殺して借りてきた。
なぜ後ろめたかったかというと、内田樹が『いきなりはじめる浄土真宗』のあとがきの最後にこう書いていたからだ。
「話が弾んで、一冊では収まりきらず上下二冊分冊となってしまった。ご散財かけますけれど、この続きもどうかよろしくお買い上げ下さい。」
ヴァーチャル堂宇「インターネット持仏堂」はいまでもネットに残っている。
「インターネット持仏堂の逆襲・教えて!釈住職」というものもある。
本になればネットから削除するのはよくあることだが、内田樹がそんなケチな了見で、天下の往来で所場を張っているわけではない。
だからタダで読みたければネットを検索すればいい。
でも商品になったものは買って読まないといけない。
ポータブルで「カジュアルな仏教書」(内田樹)を持ち歩いて手軽に読みたいなら、「散財」を惜しんではいけない。
それがルールというものだ。
図書館は重宝だけど、やっぱり現在出回っている本を貸し出ししてはいけない。
第一、借りたものには気が入らない。
投資をしないと身につかない。


で、『インターネット持仏堂2 はじめたばかりの浄土真宗』をぱらぱらと眺めている。
これはちょっと凄いことになっている。
要点を箇条書きにしてみても何も始まらない。
始まるかもしれないが、それだとお勉強モードになってしまう。
つまみ食い的に「これは」と思う箇所を抜き書きして済ますことなどできない。
できなくはないが、それは気の抜けた言葉の死骸にかぎりなく近い。
たとえば、内田樹の次の言葉。


「おのれがすでにおのれ以外の何かによって基礎づけられ、それに遅れて到来したという自己意識のあり方。/それを私はこの書簡の中で「宗教性」と呼びました。/真に知性的であろうとすれば、人間は宗教的にならざるを得ない。」(『はじめたばかりの浄土真宗』160頁)


これだけ抜き出しても、たぶん何も伝わらない。
この本の読み所は中身よりもむしろ言葉遣いにある。
ネットで培われ、鍛えられてきた文体。
それはまだ形成途上のものだと思うが、思想を語るまったく新しい語り口(『いきなりはじめる浄土真宗』「その1」のレヴィナスの注釈に出てくる「対話的エクリチュール」という語が近いか)がそこにはある。
内田樹の文体については、いまさら指摘するまでもないと思う。
面白いのは浄土真宗本願寺派如来堂住職の釈徹宗の言葉。
なんだよくあるメール文じゃないかと言ってはいけない


「えー、ところで、真宗は追善供養や慰霊や祈祷をしない、ということになっております。ええっ、そんなこといっても真宗でも葬儀・法要はやっているじゃないか、というツッコミ、ごもっともです(汗)。それは、死者のために供養したり、慰霊したりしているのではなく、仏の徳を讃える儀礼であり、その儀礼を機会に仏教の話を聞く「縁」を持つために行っている、と考えるのです。」(『はじめたばかりの浄土真宗』94頁)


この往復書簡が縁になって、内田樹・釈徹宗の「合同講義というか、漫才形式の哲学=宗教学講義」が去年の9月から始まっているらしい。
その講義録は「インターネット持仏堂3」として「本願寺出版社から出版される(かもしれない)」とのこと。