『物質と記憶』(第22回・補遺の2)

内田樹さんが『インターネット持仏堂1 いきなりはじめる浄土真宗』(その5「宿命」論)で次のように書いている。

《恋というのは「昨日と同じ風景が今日は違って見える」というかたちで顕在化します。それは性的な欲望や不充足とは違うレベルの、「昨日までとは別の物語的文脈へシフトすること」への人間的渇望をおそらく語っています。
 「猟奇的な彼女」が「同じ男の子が二度目の前に現れる」という奇跡的な「再臨」にある種の「宿命」を感じなかったとしたら(それは「不気味さ」と本質的には同じものです)、この映画はハッピーエンドにはなりません。
 人間を幸福にする手がかりの一つは、無限のランダムな事象のうちから、「これとあれは同一物だ」と同定するこの直感力のうちにあるのではないでしょうか。私はそれもまた一種の宗教的覚知のように思われるのです。》(56頁)

──この話題もまた、これ以上発展しない。
物質と記憶』にたくさん出てくる二元論のうち、最後のものが「必然と自由」だった。
このあたりのことも、ベンヤミンの運命論や性格論と関連させると面白いと思う。