「ガーデン・シティ」をめぐる二つの誤解

先日、少人数の会合でこれからの住まいや都市のあり方について「対談」する機会があった。
1時間ほどのことなので、そんな大それた話にはならなかった。
そもそも私は住宅や都市の政策に関してずぶの素人なので、もっぱら相手(その道のプロ)の話によりかかりながら思いつきを述べる程度のこと。
それでも一応、人前で話をするための最低限の「準備」はしておいた。
以下、用意したメモをもとに、その時頭に浮かんでいたことをいくつか順不同に復元しておく。
実際にしゃべった話題もあるし、時間配分を気にして発言をひかえたところもある。


◎「ガーデン・シティ」をめぐる二つの誤解

もう20年も昔のことになるが、よちよち歩きだった長男を連れて英国へ視察に出かけたことがある。
視察のテーマは何かというと、自然環境と「結婚」した都市の原点を見るというもの。
つまり「都市と農村の結婚」と称されるエベネザー・ハワードの田園都市(ガーデン・シティズ)の原風景を探る。
まわりくどい言い方だが、当時の(そして現在に至る)私の英語力でできることは限られていたので、ナショナル・トラスト本部に出向いて1、2分の会話を交わし会員登録をした以外は、純粋に視覚的な体験をすることに徹した。
具体的には、ロンドンやエジンバラの公園を親子で散策し、ストアーヘッドなど英国式(風景)庭園と呼ばれるものをいくつか見てまわっただけのことである。
この時の経験は今でも懐かしい。
その後、訳あって阪神間という「近代ブルジョアジィの古都」と称される地域にそくして都市のあり方を考えたときにも、あの視覚体験と視察の前後に読みあさった書物の記憶が鮮明に蘇った。
(その時書いた文章の一部は「生活美学都市について」と題してホームページに掲載しているのでよかったら見てください。)
前置きが長くなった。
ハワードの「田園都市」のアイデアが日本に移入された際、二つの大きな誤解が生じている。
第一に、田園都市(人口3万2千人を限度とした小さな都市でありながらも、そこで働き生活する職住近接の完結した都市機能をもったもの)を「田園郊外」(ガーデン・サバーブ)と取り違えたこと。
第二に、‘GARDEN CITIES’を‘GARDEN CITY’と取り違えたこと。
以下、昔書いた文章を転用する。


ハワードのガーデン・シティが日本ではガーデン・サバーブの形態で導入されたことに関して、東秀紀氏は『漱石の倫敦、ハワードのロンドン』(中公新書)で次のように述べている。

《東京の急速な人口増大に対して、郊外に良好な住宅地をつくることは理解できても、職場を分散させて、自立的な新都市群──社会都市[ハワードが独自の意味で使用した言葉:引用者註]を形成する必要性は、当時の日本人には認識されなかったのである。
 急速な近代化を目指していた日本人にとって、すでに社会は成熟期を迎え、生産から生活への人々の価値観の転換の中から現われてきた英国近代都市計画の理念は理解の範囲を越えていた。そのため「田園都市」は、ときには地方振興に、ときには郊外住宅地に誤解され、その語感のもつムードだけが一般に流布していったのである。》

この文章のうちに、実はガーデン・シティをめぐるいま一つの誤解が浮き彫りにされている。
それは、ハワードの著書のタイトルが‘GARDEN CITIES’であって‘GARDEN CITY’ではなかったこと、東氏の言葉でいえば、自立的な都市「群」としてガーデン・シティの思想がとらえられるべきであったことである。
日本型の田園都市(ガーデン・サバーブ)は、大屋霊城がいうように「離れ島」にすぎなかった。
島と島があたかも葡萄状に連鎖して一つの広がり(「人間サイズ」の広がりといってもいいだろう)をもった生活圏を形成していくための基盤、すなわち社会の成熟が、ハワードの思想が紹介された頃の日本ではまだ達成されていなかったのである。
ハワードが思い描き、ロンドンの郊外レッチワースで実践した‘GARDEN CITIES ’とは、単に一つの郊外都市を建設することではなかった。

《最終的には、ロンドンを周囲を含む大都市圏としてとらえ、都市の周囲の田園をグリーンベルトとして保存し、その外側に都心から職場と人口を移転させたレッチワースのような田園都市を衛星状にいくつも建設して、これらを含む大ロンドン圏(エベネザー・ハワードの言葉を借りれば「社会都市」)を、かつてのロンドンがそうであったような、町と村の集合体──「田園都市」群にしようとしたのである。》