初買いと初読み

 暮れに引越しをして、ダンボールに囲まれて新年を迎えた。まだ荷物が片付かないし、気持ちも身体も本の並べ方も定まらないが、今朝、読みかけの本を一冊携え、家の前の公園を散歩して、駅前の書店で一冊買い求め、スタバで煙草ぬきの一時間少々をゆったりとすごした。
 今年最初に購入したのは、ミシェル・ビュトールの『時間割』(清水徹訳,河出文庫)。昨年の暮れに読み終えた『小説の誕生』で、保坂和志がまるで最高の料理を味わうように、ずいぶんと自由に、気儘に、楽々と現代小説や哲学書を読みこんでいる(ように見えた、読めた)のに触発されて、なにか海外の長編小説を時間をかけて味読したいと思っていた。
 プルーストジョイスが読みかけのままになっているけれど、年も改まったことだし、この際、これまで縁のなかった作家のものを読んでみるのもいいだろうと思った。「謎とスリルに満ちた現代文学の最高峰!」とか「暗鬱な都市の迷宮に響く神話と記憶のカノン。ジョイスカフカにつながる著者の代表作」とか、謳い文句にもちょっと惹かれた。
 最初の数頁、ジャック・ルヴェルがブレストン(マンチェスターがモデルの都市)に到着した夜のことを七ヵ月後の翌年の5月に回想しているところを読んだだけだが、このブレストンという架空の都市は、もうくっきりと私の脳髄のうちに区画された場所を占めはじめている。


 散歩に携えていた読みかけの本というのは、永井均の『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』で、この本はここ一月ほど繰り返し繰り返し最初から読み直していて、たかだか100頁ほどの小冊子なのにまだ半分ほどしか読めていない。
 前著の『私・今・そして神──開闢の哲学』は、つごう5回読み返しても腑に落ちないところが残った。それどころか、読み返すたびに以前よく理解できたところ、納得や得心のいったところが曖昧になり、腑に落ちないところが逆に増えてきて閉口した。いや、けっして閉口したわけではないが、残読感とでもいうべきものが後をひいて、いまだに気になって仕方がない。
 『西田幾多郎』の方は、それよりも抵抗感がきつい。抵抗感ではうまく表現できていないが、とにかく永井均の哲学が私にはとてもよく理解できる。理解できるどころか、これはほとんど私が書いた(書くべきであった)書物ではないかとさえ思える。それは永井均が書いた(考えた)ことではなく、私(中原紀生)が書いた(考えた)ことなのかもしれない。それらを区別することは「私には」できない。だから、何度読み返しても読み終えた感じがしないし、何度読み直しても読み終えられない。
 暮れの引越し荷物を整理していて、岩波文庫の「西田幾多郎哲学論集」三巻と『私・今・そして神』を見つけた。いま私には書斎らしき部屋が三つある。高校の頃まで住んでいた家(書斎A)と今度引越した家(書斎B)と現住所(書斎C)に。西田本三冊と永井前著は書斎Aで発見したのを書斎Bに運び、そしてこれから書斎Cに移動する。ややこしい。