医・職・住

◎医・職・住
阪神・淡路大震災の直後、政府におかれた復興委員会でのこと。
委員長の下河辺淳氏が、当面の課題を「医・職・住」と規定した。
被災された方には高齢者が多かった。
医療や保健、福祉といった広い意味での公的なケアサービスの迅速な供給が不可欠である。
生活を再建するためには、まず心身の健康を回復し、地域社会での人間関係を取り戻さなければならない。
そして同時に職の確保。失業された方もいたし、事業が再開できない人もたくさんおられた。
将来への不安を解消するためにも、働く場と機会を確保しなければならない。
そして何よりも急がれることは、生活の本拠(住まい)の確保。
一日でも早く、応急仮設住宅での暮らしから抜け出すこと。
だから「医・職・住」。
これらの課題に三位一体で取り組まなければならない。
この言葉はとてもよくできている。
復旧・復興期の緊急課題であるにとどまらず、平時の地域政策の根幹をなすものを言い表している。
まず「住」が地域社会の基礎的なインフラであることは見やすい。
住宅や住居ではなく「住まい」と呼ぶことで、言葉のニュアンスとしてもよく伝わる。
いわば「コモンズ」としての住まい。
次に「職」。
雇用こそが地域政策の基本だ。
私的な会話の中である経済学者がそう指摘していた。
この場合の「職」は、職業や賃労働というよりは就業とか仕事と呼ぶ方がいい。
共同社会の中で役割を果たすことといってもいい。
ただし金銭もしくは物的な対価つき。
コミュニティビジネスとか社会起業とか社会責任ビジネスとか。
もちろん「医」も地域に根ざしているが、これは思っているより深い。
「医」(いやす)の語源をたどると「巫」という語に至るらしい
藪医者の語源説の一つに「野巫医(やぶい)」がある。
巫医とは祈り(加持祈祷の類)をもって病を癒すシャーマン(メディスンマン)のことである。
それはともかく、このことを踏まえて「医宗同源」を唱える人がいる。
ただし、ここで宗教というのは既存の宗教教団のことではない。
スピリチュアルな心性も含めた環境や他者とのつながりの意識のことでなければならない。
宗教すなわちreligionの語義は結合すること、再会すること。
余談だが、かつて都市論がブームをよんだことがある。
いつだって都市論はブームなのかもしれないが、私が覚えているのは1970年代の後半。
いくつか印象に残っている議論の中でいまの文脈に関係するのは、都市には神殿が必要であるというものだ。
神殿はアゴラのような広場であってもいいが、いずれにせよ聖なるものの場所が都市の共同性のために必要だという議論。
たぶん上田篤氏あたりの主張だったと記憶している。
いずれにせよ都市と宗教はつながる。
さて、医が宗教に関係するとすれば、それは医療・保健・福祉の公的サービスにとどまらず、市民相互の扶助やボランタリーなネットワーク(人的結合)をもいうものである。
さらに広義の教育や芸術文化、体育(修業といってもいい)なども含まれる。
いずれもこれらのことを抜きにして今後の地域社会のあり方を考えることはできない。
ある会合で教育の荒廃の問題を質問された講師の言葉が忘れられない。
彼は言下に「教育の問題は地域社会の問題です」と答えた。
その講師とは筑紫哲也氏である。
こうして「医・職・住」がこれからの地域政策の三位一体の課題であることが示された(と思う)。
ネットを検索すると、日本政策投資銀行の藻谷浩介氏が「まち(あるいは商業)は花、根は住宅、葉は職場(事業所)、茎は病院や学校、一体となってこそ花は咲く」と持論を展開されている。
まさに「医・職・住」のまちづくりである。
地域政策とは、地域社会すなわち「人が住まう生活の場としての都市」のあり方をよくしていくためのものである。
大震災直後につくられた保健医療福祉分野の復興計画の冒頭に、「大きなまちのなかにたくさんの小さなムラをつくる」といった趣旨の理念が書かれていたのを覚えている。
小さなムラすなわち「コミュニティ」もしくはコンパクトなまちが葡萄のように連なってよりおおきなまちをかたちづくる。
これこそ「ガーデン・シティ」ならぬ「ガーデン・シティズ」である。