「対象O」と「純粋言語」と「ル・レエル」

 「ラカン」「パース」「ベンヤミン」で検索して、宇波彰氏の「弱者の言説 パースからラカンへ」を入手した。明治学院大学の言語文化研究所が発行する研究紀要「言語文化」24号(2007年03月)に掲載されたもの。


(ちなみに、「宇波彰現代哲学研究所」でも同様の検索をして、「未来図書館のリストに」という記事(2008年02月14日)をみつけた。『Intercommunication』(2002年春号)の「未来の図書館にどういう本を納めるべきか」に応えたもの。
 宇波氏の回答は、「C・S・パースの著作集」「グレゴリー・ベイトソンの著作集」「ベンヤミン全集」(いずれも年代順)の三点。ブログには、「今もし付け加えるならば「ラカンの年代順作業・セミネール集」ということになるであろう」と付記されていた。)


 「弱者の言説」は、パースの「対象O(としてのテクスト)」とベンヤミンの「純粋言語」とラカンの「ル・レエル」を(いわば「星座」のように)関連づけた刺激的な小論。
 『コーラ』に連載している貫之論の次章「ラカン三体とパース十体」のマクラに使いたいと思い、プリントアウトして繰り返し読んでいるうち、ふと気になって、『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』(御茶の水書房:2007年07月27日)を図書館から借りてきてみると、思ったとおりこの論文が収録されている。
 タイトルから副題が省かれ、本文にもかなりの加除修正がほどこされているが、論旨は変わらない。同書所収の「ラカンシニフィアンに光あれ!」や「ガタリ的機械」や「アブダクションの閃光」や「聖堂のカフカ」などと併読してみて(いずれも面白い)、これはやはり「使える」と思った。どう「使える」かは、実地に使ってみないとわからないが。