書かなかったことは消えてしまう

 朝日新聞読書欄のコラム「著者に会いたい」で、現代詩作家・荒川洋治さんの新刊書『読むので思う』を取り上げた文章(2009年1月4日掲載)に次の一節が出てきた。


《ある本について書いた文章を10年後に自分で読みかえすと、「書かなかったことは消えてしまう」と気づく。書いたものがその本のすべてになる。読む、思う、書く、すべてがつながっていることへの緊張がある。》


 これが『読むので思う』からの引用なのか、インタビューに答えた荒川氏の言葉なのか、たぶん後者だと思うが、この発言と、本の中の一節とことわって記された文章、「本を読むと、何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさんある」をあわせ読んで、奇妙な感覚におそわれた。
 それは、「本を読んだから思ったこと、しかし、書かなかったから消えてしまったこと」がもたらす取り返しのつかない喪失感と、そもそも「本を読まなかったら思わなかっただろうこと、しかし、書かなかったから消えてしまったこと(思わなかったのと同じになってしまったこと)」にまつわる行き場のない空白感とがないまぜになったものだ。
 「一度は思考されたがその後消えてしまったこと」と「そもそも一度も思考されなかったこと」という、異なった種類のふたつの不在の思考が強いる「緊張」のうえに、「読む、思う、書く」ことの「すべてがつながっている」。
 「本を読んで思ったこと」は、それ自体がひとつの経験で、だから小説の題材になったり、詩や絵画や彫刻や演劇や映画や舞踊で表現することもできる。「書かなかったこと」、つまり表現されなかったことは「消えてしまう」し、逆にいうと、「書いたもの」、つまり表現されたものが「その本のすべてになる」。そうした芸術を含めたあらゆる表現行為が、つまり最広義の言語表現が、「そもそも一度も経験されなかったこと」と「一度は経験されたが、書かなかったので、その後消えてしまったこと」とが強いる「緊張」のうえになりたっている。


     ※
 今年になって、言語と芸術について書かれた書物を二冊つづけて読んだ。斎藤慶典著『知ること、黙すること、遺り過ごすこと──存在と愛の哲学』と、細見和之著『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』で、どちらもとても面白く、かつ刺激的だった。
 ここに書かれていることは、かつて私が考えたことだ。読中、そんな思い(既視感ならぬ「既読感」のようなもの)がつきまとった。
 その「かつて」とはいったいいつのことなのかと自問しても、答えはない。答えようがないのは当然で、それは「読んだから思ったこと」と「読まないでもいずれ思ったかもしれないこと」との取り違えがもたらしたものでしかないからだ。
 それは誰が最初に思ったことか。言葉に書かれた思いは、もはや誰のものでもない。でも、それを最初に書いた者と、それを読んで思っただけの者とでは、その思いと身体とのつながりの強度がまるで違っているのではないかと思う。
 まして、読んだから思ったけれど、書かなかったから消えてしまったことは、最初からなかったのと同じことになる。
 こうして、「読む、思う、書く、すべてがつながっていることへの緊張」が高まってくる。


 ほぼ半年、ブログを書かなかった。
 書かなかったから消えてしまったことが累々と、不在の場所に降り注いでいる。いや、それほど多くはないかもしれないけれど、それでもいくつかの思考はちりぢりになって消えていったはずだ。
 いまあげた二冊の本と、それから二年ほど前に読み、同様に「ここに書かれていることは、かつて私が考えたことだ」と、これまた根拠なくそう思った、前田英樹著『言葉と在るものの声』の三冊を当座の話題として、(最近、坂部恵著『不在の歌──九鬼周造の世界』を読み、いたく刺激をうけた九鬼周造の文学論や押韻論のことや、ちょうど昨日から読みはじめた宇波彰著『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』なども組み入れて)、書くことを再開しよう。
 いや、特段のテーマなどは設けずとも、それこそ「不連続」であってもいいので、書くことを再開しよう。書かなかったことは、いずれ消えてしまうのだから。そして、消えてしまったことは、最初からなかったのと同じことなのだから。