「対象O」と「純粋言語」と「ル・レエル」(承前)

 宇波彰氏の「弱者の言説」(『記号的理性批判』)で、パースの「対象O(としてのテクスト)」とベンヤミンの「純粋言語」とラカンの「ル・レエル」がどのように関連づけられていたか。以下、該当する箇所を(適宜、加工を加えて)抜き書きしておく。


◎パースの「対象O」について
 パースの思考では、記号論(認識論)は存在論と不可分になっている。
 そのパースの記号論の基本的な概念のひとつに「セミオシス」(semiosis 記号連鎖)がある。
 対象O(object)を記号S(sign)が示すとき、その記号Sを解釈項I(interpretant)によって解釈するというプロセスである。
 この解釈項Iは、実際には記号Sとは別の記号S'である。そしてこの記号S’はまた別の記号S''で解釈されるから、そのプロセスは無限に続く。そのとき、もとの対象Oは変化しない。
 ここで留意しておくべきことは、対象Oに対して記号Sがシニフィアンであるということであるが、その次に来る記号S'にとってはシニフィエになるということである。
 無限に継起するシニフィアンS、S'、S''…は対象Oとつながりがあるように見える。しかし、それらは対象Oとは別のものである。そこには「ずれ」がある。
 対象O、すなわち最初に存在する解釈の対象であるシニフィエ(としての事物[the thing,Ding])は、セミオシスのプロセスのなかでは、遅れていて、取り残されている。


ベンヤミンの「純粋言語」について
 ベンヤミンはつねに「事実的なものが理論である」というゲーテの教えに忠実であった(ボルツ)。
 そのベンヤミンは「翻訳者の課題」で次のように書いている。「いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではないのだ。」(野村修訳)
 ここでベンヤミンは、テクストが受け取るひとのために存在するのではなく、それ自体で価値を持つといっている。
 このようなベンヤミンの思想と深い関係があるのは、彼の「純粋言語」(reiner Sprache)の概念である。
 純粋言語は、「もはや何ものをも意味せず表現しない」(「翻訳者の課題」)。それは伝達の手段ではなく、意味を持たず、表現もしていない言語であるから、それを「解釈」することは最初から不可能である。
 ベンヤミンの「純粋言語」という考え方には、ヴォーリンガー(『抽象と感情移入』)の影響がある。
 ヴォーリンガーは、感情移入、つまりミメーシスを原理とする芸術を否定した。ミメーシスに代わる原理が「抽象」である。それはいかなる「表象」とも断絶した、リーグルのいう「芸術意欲」に基づく芸術の原理であった。
 ベンヤミンは『ドイツ悲哀劇の根源』で、ヤコブベーメの「永遠のことば、神の響き、神の声」ということばを引用している。「神の声」は表現や伝達を目標としていない「純粋言語」であり、人間の堕落以前、バベル以前の「アダム語」である。
 芸術家はときにこのような「言語以前の言語」を用いた作品を作る。たとえば、ジジェク(『幻想の感染』)はシューマンの「フモレスケ」について、「声にならない〈内な声〉にとどまる、声による旋律線」云々と書き、ラカン解釈のキーワードのひとつである the impossible-real という概念(到達不可能なものとしてのル・レエル)を使って説明している。
 地上の人間は「神の声」をなんとか聞こうとする。そのときに考えられる手段が、アレゴリーである。
「アレゴリカーの手のなかで、事物はそれ自体ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、この事物ではないなにかについて語ることになる。」(『ドイツ悲哀劇の根源』)
 ここでベンヤミンが「事物」(Ding)といっているのは、パースの対象Oである。


ラカンの「ル・レエル」について
 対象Oとしてのテクスト、ベンヤミンの純粋言語を、ラカンのル・レエルと関連させて考えることが可能である。
 なぜなら、これまで「現実界」と訳されてきた「ル・レエル」は、「シンボル化に絶対に抵抗するもの」(『セミネール?』)もしくは「不可能なもの」(『セミネールX?』)として規定されているからである。
 いままでの訳語に囚われず、ル・サンボリックは「言語・記号が作る世界」、リマジネールは「イメージ・像が作る世界」、ル・レエルは「像にも記号・言語にもならないもの」として解釈し直すべきである。
 言語・記号・法・慣習・伝統・文化などが一体となって作る領域、これまで「象徴界」と訳されてきたル・サンボリックこそむしろ「現実界」である。
 このル・サンボリックの領域に入ることを拒否するものがル・レエルであり、ル・レエルの領域にあるものは存在しない。「女」「性的関係」は、言語化・シンボル化が不可能なル・レエルである。
 ラカンは『セミネール?II』の段階ではそれを「物」(das Ding)と呼んだ。ル・レエルの語源はラテン語の res (物)である。この「物」は言語化されることに抵抗する。
「現実は、イメージ、論理的なカテゴリー、ラベルからなるシステムであり、差異化していて、通常は予測可能な経験の連続性に従う。これに対して、ル・レエルは現実の彼方にあって、経験のなかで、想像不可能で、名前がなく、差異化されていない他性(otherness)である。」(ジョン・P・マラー)