続・原形質と洞窟

◎原形質をめぐって


 伊藤邦武著『パースの宇宙論』第三章「連続性とアガペー」の141頁から149頁にかけて、(全体が一つの原形質[*1]からできている)アメーバの話題をふりだしに、「物質のもつ精神性の有無」をめぐる議論(「アメーバの感情」「記号としての人格」等々)が展開されている。


 アメーバは体全体が非分節的であるから、その運動(その体のどこかに刺激が加わると、そこから運動が生じ、その運動は全体に波及していく)は原形質の不定形な連続体のなかでの無秩序な変化の伝達である。「それはまさしく、観念の伝播、感じや感情の広がりと同じである。というよりも、原形質は感じそのものが外化した姿なのである。」
 ここでパースの文章が引用される。その断片。《われわれはアメーバのこの現象において、一塊の原形質のなかに感じが存在していると考える──それは‘感じ’ではあるが、明らかに‘人格’ではない──》
 このパースの説明は曖昧だが、われわれは「粘菌」のようなものを想像することができるだろう。
 そして再びパースの引用。その断片。《スライム(粘液体)は化学的合成物にすぎない。…それが合成されるならば、自然の原形質がもつすべての性質を発揮することであろう。その場合にはそれが感じるであろう。》
 人間の精神もまたアメーバと等しい。その観念の質的広がりにもとづく連続性は、観念の時間的な連続性とならぶもう一つの連続性である「他者とのむすびつき」というエレメントである。
 人格とは意識の連続性であり、それは一連の観念の連鎖以外のものではない。「この連鎖の複数の融合が、すなわち一般的精神、共同体的精神にほかならない。」
 以上をまとめると、精神と物質はその根源、原初においてつながっている。
 精神とは、互いに孤立したアトミスティックなものではなく、一般化し成長する作用としての観念=記号の世界である。「人格は記号であり、人格同士もまた記号的につながっている。」
 「世界は連続する精神と連続する物質からなり、さらには精神同士のあいだも、精神と物質のあいだも連続し合っている」。
 このパースの存在論は、生気論的・有機体的・精神主義的(伝統的な意味で純粋にロマン主義的)である。「しかし同時に、こうした観念論の特徴が全面的な偶然主義と結びつき、物質についての新しい概念の示唆と結びついている点も、けっして無視されるべきではない。」


 以上、駆け足で抜き書きした。
 ここのところを読んでいて、諸々のことが頭に浮かんできた。いま、思いだせるだけのことを書いてみると……。
 アメーバの例が、たしかベルクソンの『物質と記憶』にも出てきたこと。
 粘菌といえば、南方熊楠
 本書では詳しく述べられなかった「パースの神秘体験」[*2]と、熊楠の神秘体験[*3]の関係がなにやら妖しいと思ったこと。
 (熊楠とパースとくれば、最近読んだ、鶴見和子[*4]と川勝平太との対談『「内発的発展」とは何か』が面白かったこと。)
 このほかにもたくさんのことが頭に浮かんでいたはずだが、読んでいたときからずいぶん日が経つので、もやもやとして思いだせない。
 それでもはっきりと覚えている、もっとも面白かったことは、(精神と物質の根源的、原初的なつながりの議論もとても刺激的だったけれど──というのも、伊藤氏が「プロローグ」(3頁)で書いているように、「純粋に哲学的な思弁の産物」であるパースの宇宙論が、パースが強く信じていたような、「将来の科学的検証の対象となりうるだけの、経験的な内容を伴った理論的モデル」でありうるとすれば、それはこの点にかかっているはずだから──、それ以上に刺激的だったのは)、「物質についての新しい概念」[*5]と、それから「原形質」は英語で‘protoplasm’だと知ったこと。
 (まだ見ぬ「物質についての新しい概念」を予見させるはずの)原形質とは、実は「プラズマ」[*6]だった!


[*1]
 『パース著作集1 現象学』の38頁から40頁にかけて、「原形質とカテゴリー」の項がある。
 そこでパースは、「三つの新ピタゴラス学派的カテゴリー」を、原形質に託して説明している。第一のもの、潜在的力=「情態」のカテゴリー。第二のもの、反作用的力。第三のもの、総合化の法則。


[*2]
 パースの神秘体験についてはブレント著『パースの生涯』の358頁以下を参照せよ。伊藤氏が注にそう書いている(161頁,249頁)。
 で、さっそく読んでみた。(ちょうどその直前のところまで読み進めて、どういうわけか中断していた。これから面白くなる前に!)
 こういうことが書かれている。「神秘経験後のパースにとっての記号論は、実在がいかに宇宙に内在しつつ超越しているか、無限の語り手が我々の宇宙を創造するのにいかにして記号作用[セミオーシス]という記号の行為を行なっていると言えるか解き明かすものである、と理解されるべきではないかと私は考えている。」(362頁)
 これに続けて、ブレントはパースの連続主義(シネキズム)にふれ、「ガラスのようにもろい人間の本性」という「驚くべき」論文の話題に転じる(365頁以下)。そこに引用されたパースの文章の断片。《[原形質は]感じているのみならず心のあらゆる働き方を行使している。……物質が心の特殊化にほかならない存在であるとすれば……》


[*3]
 漱石と入れ替わるようにイギリスから帰国した熊楠は、植物採集のため那智に向かった。「かくて小生那智山にあり、さびしき限りの生活をなし、……自然、変態心理の研究に立ち入れり。幽霊と幻(うつつ)の区別を識りしごとき、このときのことなり」。しかし、この那智隠棲時代は二年で切り上げられる。「この上続くればキ印になりきること受け合いという場合に立ち至り……」。
 以上、安藤礼二「野生のエクリチュール」(『光の曼荼羅』)から。この安藤氏の論文は、いやこの論文を収録した書物全体が、「物質についての新しい概念」に関する「驚くべき」仮説を提示するものだ。


[*4] 
 個人的な「発見」を一つ。その昔出していたMM版「不連続な読書日記」(No.70)で、鶴見和子『『南方熊楠・萃点の思想』と港千尋『洞窟へ』を並べてとりあげていた。


[*5]
 たとえば、安藤礼二氏の「霊獣 『死者の書』完結編」に(『光の曼荼羅』収録の「光の曼荼羅─『初稿・死者の書』解説」の「4 珊瑚礁の身体」にも)出てくる「珊瑚の樹」が、その一つの事例になっている。「動物と植物と鉱物の性質をあわせもった珊瑚、複数の個体が単一のコロニーを形成する、南の海の不可思議な生命体」等々。


[*6]
 固体、液体、気体につぐ物質の第四の状態をいうプラズマと、プロトプラズマ(原形質)のプラズマは、使用される文脈は違うが、ともに「基盤」を意味するギリシャ語(もしかすると「コーラ」という語と響き合っているのかもしれない、要調査)に由来する語。エクトプラズマのプラズマも同様。
 『電気的宇宙論?──銀河、恒星、惑星の進化を書き換えるプラズマ・サイエンス』という本に、「宇宙はそれ自体が巨大な伝導体であり、電気の力が宇宙全体を結びつけていた。」「電気的宇宙は、これまでまったく関係ないと思われていた古代の謎にも解明の光を当てる。古代の岩壁絵画に描かれた象徴・文様が、古代の空にプラズマ放電が作り出した形と同じであることがわかったのだ。」などと書いてある(カバー裏)。
 世界各地の岩窟壁画(「洞窟」壁画も含まれる、たぶん)に描かれた「スクワットをする人物」や「アイマスク」は、プラズマ放電が作り出す砂時計型のパターンやトーラスの形と「あまりにもよく似ており、とうてい偶然とは考えられない」。