非人格的な感情/感覚質の宇宙/精神の結晶

 図書館で借りて、読まずに継続を繰り返しているうちに予約が入ってしまったので、伊藤邦武著『パースの宇宙論』(岩波書店)を購入。新品同様のものを、古本屋で800円引きの2千円で買った。とりあえず、プロローグ「ヴィジョンとしての多宇宙論」とエピローグ「素晴らしい円環」を駆け足で眺めた。この本をまともに読み始めたら、たぶん数ヶ月はパース一色で染め上げられてしまう。
 パースの三つのカテゴリー論(伊藤氏はこれを三つの基本的エレメント、「三大」と呼ぶ)など、いま苦しんでいる「哥とクオリア」のテーマそのものだし、プロローグに引用されていたパースの次の二つの文章は、破壊的なまでに面白い。


《無限にはるかな太初の時点には、混沌とした非人格的な感情があり、そこでは連絡もなければ規則性もなかったがゆえに、現実存在というものもなかったと考えられる。この感情は、純粋な気紛れのなかで戯れているうちに、一般化の傾向というものの胚種を宿し、それには成長する力がそなわっていたのであろう。こうして習慣化する傾向というものが始まり、そこから、他の進化の原理とともに宇宙のあらゆる規則性が残存し、それは世界が絶対に完全で、合理的で、対称的な体系になるまで存続することであろう。精神もその無限に遠い未来において、最終的に結晶するのである。》(「理論の建築物」)


《われわれが現在経験する色、匂い、音、あるいはさまざまに記述される感情、愛、悲しみ、驚きは、すべて太古の昔に滅びたもろもろの質の連続体から遺された残骸であると考えざるをえない。それはちょうど廃墟のそこかしこに遺された円柱が、かつてはそこにいにしえの広場があって、バシリカ聖堂や寺院が壮麗な全体をなしていたことを証言しているのと同じである。しかし、その広場が実際に建立される以前にも、その建築を計画した人の精神のうちには、ぼんやりとして不十分な現実存在があったことであろう。まさしくこれと同様に、わたしはあなた方に、存在の初期の段階には、現在のこの瞬間における現実の生と同じくらい実在的なものとして、感覚質の宇宙が存在したのだと考えてもらいたいと思う。この感覚質の宇宙は、それぞれの次元間の関係が明瞭になり、縮減したものになる以前の、もっとも初期の発展段階において、さらに曖昧な存在形態をもって実在していたのである。》(『推論と事物の論理』,『連続性の哲学』(岩波文庫)第6章「連続性の論理」257頁)