概念のポリフォニー

 ラテン語のペルソナは、三位一体の神の三つの「位格」(父・子・聖霊)を示す語として採用されるはるか以前から、劇場での仮面や劇中の人物、文法上の人称などの意味をもつ語として使用され、キケロ以降、法的人格や社会的役割、人柄、さらに抽象的な「人間」(英語の person につながる)など、その意味を広げ今日に至っている。これは、坂口ふみ著『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』からの受け売りです。
 ところで、この書物には、東方ギリシア語圏のキリスト教神学では、神の三つの位格を示す語として「ペルソナ」ではなく「ヒュポスタシス」が使われていたことが記されています。この、プロティノスが好んで使った語は、「下に立つ」という意味の動詞から生じた名詞(ラテン語 substantia の語源)で、その古い意味に「液体の中の沈澱物、固体と液体の中間のようなどろどろしたもの」があります。このことを踏まえて、坂口氏は、「ヒュポスタシスは比較的新しいヘレニズム・ギリシア語で、存在のアクチュアリティー、実存、といったニュアンスをもち、動的はたらき、流動のうちのいっときの留まり、という性格をもつ」と書いています。
 では、これらまったく出自を異にするする二つの語が、西方キリスト教神学においてなぜ等置されたのか。『〈個〉の誕生』は、古代ギリシャから中世キリスト教世界へと響き渡る微細な「歴史の倍音」の聴き取りを通じて、ギリシャ語のヒュポスタシス(沈澱・基礎)とラテン語のペルソナ(仮面)の等置という「概念のポリフォニー」が生じるに至った経緯を、余すところなく描ききっています。その詳細に立ち入ることはできないので、ここでは、ヒュポスタシス=ペルソナという多義的な概念が孕むことになった、豊饒かつ多様なその後の思想的展開に説き及んだ一節を、長くなるけれども加工や省略の手を入れずにまるごと抜き書きしておきます。


《なぜ沈澱イコール仮面なのか? それはさきに述べたように、「沈澱」は流動する存在の流れのうちのいっときの留まりであり、仮面は舞台と劇のうちの一役割であり、共に交流の一結節として存在をもつものであり、しかも共に、この時代には「個存在」の意味をもつ語であったからだということは、すでに述べたとおりである。これは静と動を併せ、個存在と交流を併せる、矛盾と多様をうちに含む概念であった。さらにその「動」「静」「交流」「個」はヒュポスタシスでは存在的・宇宙的なもの、ペルソナでは社会的・人間的なものであった。このようにして、この概念ほど包括的なものはまたとないような概念が生じてきた。
 広義な概念はいくらでもある。しかし、うちに矛盾を含むことをその中核とする概念というのはめずらしい。ヒュポスタシス=ペルソナという概念はまさにそういう概念である。しかしこれは、その由来、つまりキリストという複雑で逆説的な存在を言いあらわすために生じてきたということを考えれば、当然なことである。そしてこの、矛盾を本質とする、しかも、人間的・宗教的要請の筋金で一本太く貫かれている概念が、キリスト教を母体とするヨーロッパの思想の営みに(意識的・無意識的に)与えてきた影響は絶大なものがあると思われる。ヨーロッパ思想の胚種、原動力、ストアなら種子的理性〔ラチオ・セミナーリス〕とでも言うだろうものが、この名で呼ばれているのである。
 この概念はまったくの空虚とも解されうるし、また逆に存在と生の充実そのものとも解されうる。「本質」や「構造」を人間の内実と見る立場からは、どうしてもそれに解消されきれない残渣、どうしても本質からは説明できない存在性という、理論にとっての必要悪、じゃまなものであり、学問の枠からはみ出る傍若無人な、計算できない厄介者である。
 他方逆の立場からは、それは世界の存在の根源であり、人間の人格性や自由の源であり、理性的・情意的なあらゆる活動の源でもある。アウグスチヌスによって、内省のうちにあらわれる「わたくし」ととらえなおされたこのものは、デカルトのコギトを通して、カントの空虚な先験的主観の統一のはたらきにもなっていった。これはヒュポスタシス=ペルソナの一つのすぐれた解釈と言えよう。フッサールの「超越論的主観性」もこれを受けつぐものであることは言うまでもない。
 人間の芯であり、全存在の芯でもあるこのものは、ポジティヴに見ればあらゆる限定を超え、あらゆる限定を統合・包括するもの、「存在の充溢」でもあり、ネガティヴに言えばまったくとらええぬもの、「無」「空虚」「残渣」でもある。
 「わたくし」の主観の集約をもたらしたこのものは、また、「非−わたくし」的な、私の意識を完全に超える、意識的、または無意識の、宇宙的な生と存在の流動とも解されうる。したがってこれは個別者とも考えられるし、全体とも考えられる。ネオプラトニズムのヒュポスタシスはまさしくそのようなものであり、キリスト教のヒュポスタシスもその色を濃く保っている。とくに東方ではこの傾向が強かったことも、何回か述べてきた。
 さらにこの生と存在の流動も、一方では欲望や欲求やリビドーの流れとも解されうるし、他方ではエラン・ヴィタールのようにも解されうる。人間を動かし、支え、生むものとして、ヒューマニズムの根にもなりうるし、理性的で意識的であるはずの人間の本質とは異なる、形なき流動として、反ヒューマニズムの根を形づくることもできる。
 同様に、自でもあり他でもあるこのものは、レヴィナスのような「絶対的他者への開け」の考えを支えることもできるし、逆にすべてを呑みこむ同一的なエネルギーの思想を生むこともできる。「わたくし」として一回きりの顔をそなえたものでもあり、また顔なきエネルギーとも解されうる。理性を生み、まず理性と結びつくものとも考えられる──理性の普遍性・交流性をペルソナのそれの中心をなすものとしたトマスのように。しかしまた、多くの近代の生や物質や欲望の哲学のように、理性に反するもの、理性をあやつる力とも考えうる。
 それぞれ細かく差異化され、時には正面から対立するようにみえるこれらの諸思潮に、しかしきわめて大まかに見れば共通の構図が一つないだろうか? そのときどきの限定と制約と固定化への異議申したてという「ビザンツインパクト」がそこに働いていないだろうか? そのインパクトはしかし、「本性」や「構造」や機構を否定的に超えると共に、それらを自ら創り出すものでもある。それはすでにネオプラトニズムの体系がそうだった。キリスト教の神も、もとよりイデア世界・物質世界の創造者であり、キリスト教はこのとらえがたい個の概念を基本にして、あれほどのスコラの体系と、強大な教会の制度・組織を造ったのだった。》(280-282頁)


 これほどまでの壮大さと射程の奥深さをもった文章を目にしたら、あとはもう、ただひたすら反芻・玩味・検証し、沈黙のうちに撤退するしかなすべきことはないのかもしれませんが、あえて言葉を紡ぎ出すとすれば、ここには、クオリアをめぐる問題と同型のものが、とりあえずは「主体」の成立と呼んでおいてさしつかえのない事象をめぐって、生じているのではないか。すなわち、「キリストという複雑で逆説的な存在」あるいは「とらえがたい個の概念」(ヒュポスタシス=ペルソナの概念)という、言葉を超えた暗号をいかにして言葉(ロゴス)のうちに捕捉するか、という困難な課題が潜んでいるのではないかと思うのです。(「哥とクオリア」から)