ミシェル・ビュトール『時間割』その他

 好天気に恵まれた三連休がさっさと素通りしていった。とりとめのない雑然とした印象しか残っていない。
 永井均西田幾多郎』の三度目の通読を終え、ためいきをつき、中村真一郎『女体幻想』の「1乳房」と『坂部恵集1』の月報(柄谷行人鷲田清一)と「人間学の地平」の序文を読み、ためいきをつき、『物質と記憶』の解説とあとがきと『サライ』の落語特集を読み、付録のCDで落語を聴き、図書館で借りてきた伊藤邦武『パースの宇宙論』と富岡幸一郎『悦ばしき神学──カール・バルト『ローマ書講解』を読む』とベンジャミン・リベット『マインド・タイム──脳と意識の時間』と内田樹×三砂ちづる『身体知──身体が教えてくれること』の背表紙を凝視し、ためいきをつき、ようやく本箱に整理できた「蔵書」を眺め、ためいきをつき、川端康成『美しい日本の私 その序説』英訳つきと中村真一郎『色好みの構造──王朝文化の深層』を買い、ハンナ・アーレントアウグスティヌスの愛の概念』と藤枝守『増補 響きの考古学──音律の世界史からの冒険』は買わずに、今度こそ書こうと決めていた確定申告の書類は放置したまま三連休は静かに死んでいった。


 読み終えたばかりのミシェル・ビュトール『時間割』の感想文でも書くかと思ったけれど、この五部構成の作品は記憶語り(過去の月日の浚渫作業、時間割の綿密な再構成)の五つの方法によるカノン(輪唱)の形式をとっていて、それらが錯綜していくにつれてそこで書いているのはルヴェルなのかブレストンなのか、書かれているのはルヴェルのブレストン滞在一年間の個人的な記憶なのかブレストンという中世都市の血塗られた歴史なのかが濁った牛乳まじりの陽光のようにしだいに曖昧になっていく──と思いついたところでそんなことはとっくに作者自身が自作解説のなかで明かしている(と訳者の解説に書いてあった)し、第一、小説の「時間構造」や作品世界の礎石のところにしつらえられた二つの神話(旧約聖書のカインとギリシャ神話のテセウスの物語)や作中にしつらえられた推理小説(『ブレストンの暗殺』)とのつながりの構造などを暴いてみせたところでそれはそれだけのことで、五つの記憶語りがオーバーラップする最終章はかなり難渋したものの総じて読み進めていくことの愉悦を与えてくれた(ゴダールの『勝手にしやがれ』のようなタッチで全編ルヴェルのモノローグつきの映画にしたら面白いだろうと思った)この作品の「時間構造」や構築された(あるいは断片のまま放置された)物語世界のなかでどういう体験をしたかを我と我が身を抉るようにして書いてみないと何も書いたことにはならない。