脳もまたイマージュである

 「クオリアとペルソナ」の方は、先週いっぱいかかって、第1回「哥とクオリア」の三分の一ほど書いたところ。予想外に長くなってしまって、といっても半分以上は引用か祖述、残りの半分は言い訳か予防線かせいぜい伏線のようなゴタクばかりで、書いていてもまるで気分が紅葉、いや高揚してこない。第一、発見がない。
 永井均著『西田幾多郎』の議論を歌論にひきつけて読むという趣向なのだが、だからどうなの、という声が自分のなかから聞こえてきて嫌になる。だから「備忘録」の続き、抽象理論篇に対する実証篇(素材蒐集と問題集)もまるで書く気になれない。だからしばらく中断して英気を養うことにした。そのまま終わってしまうかもしれないが。


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 ちくま学芸文庫から『物質と記憶』の新訳が出た。前作『意識に直接与えられたものについての試論』に続いて合田正人氏が、今度は「若手のペルクソン研究者」松本力氏と組んでの共訳。
 ベルクソン独り読書会の方は、ドゥルーズ編集の『記憶と生』が昨年の8月以降中断したままになっている。読むのが嫌になったわけではないが、アンソロジーだといまいち乗れない。やはりこの本は主著をひととおり読んでから取り組むのがいいように思う。
 ベルクソン熱はいつまでも冷めない。この間、「ベルクソン研究家」の渡仲幸利氏が書いた『新しいデカルト』を読み、また篠原資明著『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』を読んで、ますますその気持ちが募っていく。恋心のようなものかもしれない。だから週末を迎えると、いまでも心が騒ぐ。あの『物質と記憶』を毎週末に熟読玩味していた頃の幸せな時間をとりもどしたいと切に願う。
 だったらもう一度読めばいいようなものだが、白水社全集版は、二種類の色の蛍光ペンでマーカーを引きまくっているし、その上に鉛筆で線を引いたり強調マークをつけたりびっしり書き込みをしたりしていて、とても汚い。装丁もぼろぼろになりかけていて、持ち歩いて読むには適さない。かといって岩波文庫版は復刊されたのを買い忘れたし、それにあの活字の組み方ではでは眼にきつい。
 そんなこんなで欲求不満をためていたところに、ポータブルな文庫本で新訳が刊行された。「今日、心脳問題への関心の中で、その重要性がいっそう、高まる主著」とカバー裏に書いてある。「脳もまたイマージュである/心身問題の画期的展開」と腰巻に書いてある。それはそうかもしれないが、『物質と記憶』を心身問題や心脳問題への関心だけで読むのは、ミスリーディングだとまではいわないけれども、あまりに矮小化しすぎでもったいない。
 じゃあ、『物質と記憶』をどう読めばいいんだ、と問われても答えはない。つい、気持ちが高ぶってそう書いただけのことなのだから。その答えは、もう一度あたまからじっくり読み込んでからみつけることにして、まずは共訳者による解説とあとがきにざっと目を通して、かつての熟読体験(恋愛体験のような)を思い浮かべることから始めるか。