最近読んでいる本・買った本

あいかわらずの不調、不運が続いている。
ホームに上がると、電車の扉がしまる。横断歩道では、信号が赤に変わる。街を歩いていると、人にぶつかる。たばこの火が服に落ちる。
知人の名前が出てこない。本の題名を忘れる。数字が憶えられない。
読みかけの本が山積みになる。どこまで読んだかも判然としない。


この一週間は、とっかえひっかえ読みちらかすのをやめて、三冊にしぼった。
河野哲也『〈心〉はからだの外にある──「エコロジカルな私」の哲学』(NHKブックス)。
半分ほどまで読み進め、はじめの頃の「熱中」が醒めてきた。
だらだらと断続的に読んでいると、議論の本筋が頭に定着しない。
こういう本は、最初の勢いを借りて一気に読むにかぎる。
吉本隆明梅原猛中沢新一『日本人は思想したか』(新潮文庫)。
じわじわと面白くなってきた。
ようやく「歌と物語による「思想」」の章に入ったところ。
「地下水脈からの日本宗教」の章がこれに続く。
昨年来の関心事である「歌と仏」(あるいは「性愛」と「霊性」)に、新機軸がもたらされるか。
先週、『物質と記憶』を読み終えてから、日常座臥、ベルクソンの文章に浸っていたいと思うようになった。
まるで、恋をしているような気分。
ベルクソンの文章に接しているときだけ、心と躰のもやもやが晴れて、澄み切った気持ちになれる。
外出先でも手軽にふれることができるよう、『思想と動くもの』(河野与一訳,岩波文庫)をつねに持ち歩くようになった。
「緒論(第一部) 真理の成長。真なるものの逆行的運動。」を読んだ。
「哲学は、エレアのゼノンがわれわれの悟性によって考えられているような運動および変化に固有な矛盾を指摘した日から始まった」(20頁)という、高名なくだりが出てくる。
この人の文章は、早く読みすぎるとまるで面白くない。
「コップに一杯砂糖水をこしらえようと思うと、どうしても砂糖が溶けるまで待たなければならない。この待たなければならないことが意味のある事実である」(26頁)。


今週買った本。
ベルクソン『笑い』(林達夫訳,岩波文庫)。いきつけの古書店でみつけた。
ベルクソン自身もさることながら、久しぶりに林達夫の文章が読みたかった。
石井敏夫『ベルクソンの記憶力理論──『物質と記憶』における精神と物質の存在証明』(理想社)。
物質と記憶』を「一冊の書物」として読むことに徹した論考。「序論」を二度読んだ。
吉本隆明カール・マルクス』(光文社文庫)。
久しぶりの吉本隆明もさることながら、「あとにもさきにも、日本にもヨーロッパにも、これほど深いマルクス論に、私は出合ったことがない」と書く、中沢新一の解説「マルクスの「三位一体」」が読みたかった。
そのほか、福井晴敏『Op.[オペレーション] ローズダスト』上下(文藝春秋)を買って読んでいる。
亡国のイージス』『ローレライ』に続く長篇。この二つの作品、とくに前者は傑作だった。
映画もビデオで観たけれど、どちらも(とくに前者は)ひどい出来だった。
福井作品の「本質」がわかっていないシロモノだった。
たしか『ローズダスト』の新聞広告に、映像では表現できない、といったフレーズが出てきた。
たとえば『亡国のイージス』に込められた「濃厚な感情」は、もともと文字でしか表現できないものだ。
『ローズダスト』には、どこか村上龍の『半島を出よ』を思わせるところがある。