『物質と記憶』(第24回)

巻末の「概要と結論」を最初から通読して、これで『物質と記憶』全編を読了した。
ほぼ8ヶ月かかって、とりあえず所期の目的(判ろうが判るまいが、とにかく一度は最後まで読む)を果たしたわけだが、あまり達成感がない。
ベルクソンの思索が身心のすみずみに浸透して、物の見え方、世界のあり方がすっかり更新されたという実感がない。


最近読んだ『はじめの哲学』の中で、三好由紀彦さんがこう書いている。
科学は人間の感覚や経験を前提としたものだ。
つまり、科学は世界を説明するために、この世界を前提とせざるを得ない。
だから、存在の世界の「いちばん最初の根っこ」(因果関係の糸の端っこ)をつかまえるためには、素粒子を観察する眼をさらに観察する眼をもたなければならない。
見ることをさらに見ること。それこそ、哲学の仕事である。
しかし、哲学もまた、あくまで経験できる世界のことしか論じない。
論理的に証明不可能なこと、たとえば死後の世界の有無について論じるのは、哲学本来の目的ではない。
宗教だけがこの無知を飛び越えるのだ。


ベルクソンの純粋知覚(=物質)の説を徹底すれば、石にも知覚があることになる。
それどころか、物質的宇宙そのものにも意識(知覚)はあることになる。
同様に、純粋記憶(=精神)の説を徹底すれば、死後の生(記憶)はもとより、生前の生(記憶)も実在することになる。
宇宙そのものの記憶を考えることだってできる。
物質と精神がひとつながりのものになる。
物質と記憶』の議論は、精神と物質の合流点、つまり身体における知覚と記憶の接触の場面(行動の平面)に限られている。
この限定が、『物質と記憶』という作品に一種の品格のようなものをもたらしていることは事実だ。
そこから一気に記憶の存在論、精神の実在論がなりたつ場面(夢想の平面)にまで飛びたちたいと、私の思考がうずいている。
しかし、そのための梯子が見あたらない。