続々・原形質と洞窟

◎洞窟をめぐって


 『パースの宇宙論』第四章「誕生の時」の冒頭に、「パースの宇宙論においては、視覚世界から嗅覚世界への向き直りが、現実世界の形式の非唯一性を認識させる扉を開くという明確な意識が存在した」(182頁)と書いてある。
 そして、「人が光のない洞窟のなかで、自由に空中を遊泳しながら、さまざまな匂いと触覚とを頼りに空間の位置を確かめる経験を続けるうちに、空間の「特異面」を通り抜けて異種的な空間との行き来を行い、やがて内と外とがその特異面でつながっている「クラインの壺」の構造の空間に生きるという、新しい体験のありかたを習得する過程を記述した、『連続性の哲学』[242-45頁]のなかのユニークなパッセージ」が引用される。


 と、書き始めて、この話題は、以前(5月3日)、「パースの宇宙論と九鬼周造の回帰的時間」でとりあげたことに気づいた。
 そのとき抜き書きした文章、「エキゾチックな香りが伝える嗅覚の世界や不思議な体感が伝える触覚の世界は、メビウスの環やクラインの壺に代表されるトポロジカルな空間を体験させることによって、実際に異次元の世界への通路をもたらす力をもつのである」は、「視覚世界から嗅覚世界への向き直り」という、パースの洞窟体験の思考実験がもたらす世界を描いている。


(この「向き直り」は、『他界からのまなざし』での古東哲明氏の説──そもそも「プラトン哲学」なるものはない、プラトンが書き残した対話篇は、「たましい」(プシューケー)の向き変え・改変(ペリアゴーケー=実存転調・身体変容)への誘いであった──を、というより、そこでいわれる「ペリアゴーケー」を想起させる。
 想起させるどころか、伊藤氏自身が、こう書いている。パースの議論は、洞窟の影から太陽の光の方へと向き返ることを説いたプラトンの思想と「まったく同じ構造をもつものではないとしても、やはり洞窟を利用した形而上学的冒険の一種には変わりがないといえよう」(227頁)。)


 メビウスの環やクラインの壺の構造をもった空間。表と裏、外と内をつなぐ特異面をもった空間。異次元世界への(ブルトンの通底器[*1]を思わせる)「通路」。
 それらはみな、「洞窟体験」(227頁)をもたらす「宇宙空間の洞窟的世界」(228頁)の説明であると同時に、宇宙への「洞観」(227頁)に裏打ちされたパースの思想の世界を言い当てている。
 『二○○一年 宇宙の旅』の最後にでてくる「異次元の回廊」とは現代宇宙論の「ワームホーム」であり、その発想の基礎となる宇宙の特異点、すなわち「ブラックホール」は「宇宙大の規模で想定された現代の哲学的洞窟であり迷宮である」(228頁)。
 この言葉は、パースの思想そのものの形容でもあるだろう。パースの思想は、宇宙大の規模で想定された現代の哲学的洞窟であり迷宮である。
 そして、パースの方法は、洞窟を導管[duct]とする推論、すなわち「洞窟的推察」[*2]、略して洞察(=アブダクション[abduction])そのものであった。


[*1]
 安藤礼二「野生のエクリチュール」に、ブルトンの通底器について、それは「極度に抽象的で「純粋なフォルム」というかたち」であり、「自然の生み出す、無限の変化をもった曲線」でもあり、「官能的な自然そのものの姿」であり、「細部の微小な差異に満ち、反復可能であるもの、「生え出たばかりの羊歯や、アンモナイトや、胎児状渦巻の曲線のような果てしのない曲線」(「自動的メッセージ」)でもあるようなもの」(『光の曼荼羅』190頁)だと書いてある。
 この「通底器」を「洞窟」と同義に解していいのなら、「官能的な自然そのものの姿」である洞窟、「胎児状渦巻の曲線」でもある洞窟、「単性生殖」の器官としての洞窟、といったアイデアにもなにがしかの根拠が与えられることになるだろう。
 たとえば、折口信夫の「ホモセクシュアリティと呼ばれているものの本質」にある、「男としての自らの「胎」に「死者」をあらためて胎児として孕み、出産すること」、すなわち「母胎を経ない出産」=「死からの誕生(復活)」の場所(容れ物)としての洞窟(「光の曼荼羅─『初稿・死者の書』解説」,『光の曼荼羅』390-391頁)。


[*2]
 松岡正剛氏は、「パース著作集(全3冊)」をとりあげた「千夜千冊 遊蕩篇」第千百八十二夜で、「アブダクションとは総合的な【推感編集】なのだ」と書いている。この【編集工学】語彙を借用すれば、「洞窟的【推感】推察」、略して「洞察」。