『物質と記憶』(第21回)

物質と記憶』第四章を読み終えた。
先週の日曜日に前半、「二元論の問題」「従うべき方法」の二節と「知覚と物質」の途中まで読み、その続きと「持続と緊張」「延長とひろがり」「心と身体」の三節を今日一気に読んだ。
二度目の陶酔(フィロソフィカル・ハイ)が到来した。
最後の節の冒頭に、「このようにして私たちは、長い回り道をへて、本書の第一章でとり出しておいた結論に立ちもどってくる」(244頁)と書いてある。
ここに出てくる「本書の第一章でとり出しておいた結論」とは、「私たちの知覚は元来精神ではなくむしろ事物の内に、私たちの内ではなくむしろ外にある」(同)というものだ。
これはまさに、最初の陶酔を覚えた第一章四節「イマージュの選択」に書いてあったことそのものである。
その節の最後に出てくる文章を抜き書きしておく。


発光点Pからの光線が網膜の諸点a・b・cに沿って進み、中枢に達してからのちに意識的イマージュへと変換され、これがやがてP点へと外化される。
しかしこの説明は科学的方法の要求に従っているだけのことで、全然、現実的過程をのべていない。

じっさいには、意識の中で形成されてのちにPへと投射されるような、ひろがりのないイマージュなどは存在しない。本当は、点Pも、それが発する光線も、網膜も、かかわりのある神経要素も、緊密に結び合った全体をなすのであり、発光点Pはこの全体の一部をなしていて、Pのイマージュが形成され知覚されるのは、他の場所ではなく、まさにPにおいてなのだ。(49頁)


ここに出てくる「全体」という言葉は、第四章「延長とひろがり」の節の「或る対象の視覚的知覚においては、細胞も神経も網膜も、そして対象そのものも、緊密に結びついた全体、すなわち網膜の像も一挿話にすぎない連続的過程を形づくっているということは、本書の冒頭で示したように真実ではなかろうか」(240頁)と響き合っている。
さらに遡れば、「知覚と物質」の節に出てくる「問題はもはや、いかにして物質の特定の部分の中に位置の変化が生ずるかということではなく、いかにして全体の内で位相の変化が遂げられるかという点にかかわるであろう」(219頁)とか「なぜ私たちは、あたかも万華鏡を回転したかのように全体が変わるということを、そのまま端的にみとめないのであろうか」(220頁)とも響き合っている。
このあたりのベルクソンの議論(茂木健一郎のいう「マッハの原理」を思わせる)にはアインシュタインの影を感じる。
物質と記憶』の刊行は1896年だから、その「影」は未来から投げかけられたものであろう。
というか、ベルクソンアインシュタインも同じ一つの時代精神のうちにある。
そういう粗雑なことを喚いていても始まらないので、いまなお余韻がつづくフィロソフィカル・ハイの実質を丹念に「割って」いかなければならない。
ほとんど「祖述」に近いかたちで語り直すこと。
何度でも最初から語り直すこと。
それが哲学書を読むという経験であろう。