『全体性と無限(下)』解説

レヴィナスの『全体性と無限(下)』(熊野純彦訳,岩波文庫)を買った。
第一刷発行の日付けは1月17日で、奇しくも阪神・淡路大震災11周年の日。
先月、上巻の序文を読んだ日に「問題は、いつ読むかだ」と書いた
この問題は解消していない。
つまりいまだ本編には手が、いや目が入っていない。
章節が小刻みに区画されていて、それぞれにタイトルがふってある。
いかにも少しずつ小分けして読むのに向いている。
ここ半年ほど続けてきた『物質と記憶』の独り読書会にならって、ノートをつけながら読み始めてみようかと真剣に考えている。
副読本はもちろん、これまた積ん読状態のまま塩漬けになっている斎藤慶典著『レヴィナス──無起源からの思考』。
内田樹著『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』もいつか再読したいと思っていたことだし。
とりあえず、熊野純彦氏の解説を読んだ。
この二つの話題が記憶に残った。
その1.
『全体性と無限』(1961)に対するデリダの批判「暴力と形而上学」(1964)とこれによるレヴィナスの「転回」、そしてデリダその人へのレヴィナスの思考の反響。
簡潔な叙述でもって要約される西欧思想のドラマ(旧約対新約?)。
その2.
『全体性と無限』ドイツ語版序文でレヴィナスは、フッサールハイデガー(『存在と時間』)からの決定的な影響を告白した。
この両者とならんで名を挙げている哲学者の一人がベルクソンである。
そのベルクソンについてレヴィナスはある回想のなかで、ベルクソンの作品は「一篇の詩のように」すでに完成されたものであったと書いている。