スコラスティック・レアリズム、トリニティ

 「中世哲学復興」の特集を組んだ『大航海』から、坂部恵×樺山紘一の対談「中世哲学のポリフォニー」と神崎繁×三浦雅士のインタビュー「翻訳が創造したもの」、パースの「観察の新しいクラスについて」(三谷尚澄訳)と訳者解題「スコトゥス実在論者としてのパース」を読んだ。
 いずれも面白かった。(とりわけインタビューでの神崎繁の発言が、途方もなく刺激的だった。読んでいて興奮した。あまりに強烈だったので、猛烈な勢いで一気に読んだ。だから、後にほとんど何も残っていない。)タイトルだけ眺めた他の論考も、読まずに済ますわけにはいかないと思ったが、今日のところは「記念」に、対談とインタビューから二つの箇所を抜き書きしておく。


《坂部 とことんまでスコラ哲学者たちが突き詰めて考えたというのは、これは西洋だけではなくて、たとえば仏教の伝統でいえば、原始仏教とか小乗仏教よりむしろ、唯識とかを考えるようになった頃から、突き詰めてとことん考えるというやり方が出てきた。それから密教の伝統の中では、それこそ八世紀の東ローマ世界なんかの霊性に匹敵するものが密教に出てきますね。たぶん東西で交流もあったと思う。そういうものが日本でも盛んだったのは、道元とか、明恵とか、だいたい鎌倉時代までです。こういうものに学ぶべき点が、私は確かにあると思うんです。網野さんのおっしゃる公界とかの世界とはまた別の話しとして学ぶ必要がある。
 それからもうひとつだけ言わせていただくと、これは「大航海」の前々号で、三浦さんと伊藤邦武さんがパースについて対談していらして、パースが現代人としては珍しく実在論に与したという話しがたくさん出てきます。あそこで言っている実在論、レアリズムとはスコラスティック・レアリズムとも言われるレアリズムです。われわれが考える社会主義レアリズムとか、観念論に対する実在論じゃないですね。要するに類が実在するという、一見われわれにとってはおとぎ話のようなものです。パースはドゥンス・スコトゥスの議論が好きで、その実在論に与したということはいったいどういう視点がもとにあったのかは、いまだに私にはもうひとつ分からないところなんです。
 それと、おもしろいと思うのは、パースより時代はちょっと後ですけれどもベンヤミンは『シュルレアリスム論』で。シュルレアリストはレアリストだと、スコラスティック・レアリストだと言っているんです。あまりその、前後説明がないものですからどういう意味で言っているのかよく分からないんだけれど、前から気になっています。
 このようなことを聞いていつも思うのは、芸術の世界でいえば中世の装飾と現代の抽象芸術には、一種の類縁性があるんじゃないかということです。現代で抽象芸術を展開した人たちが直接中世から影響を受けたとかいうことが、どれくらいあるか知りませんけれども、ただ、現象としては、とことんものを見て書くとかつくるとかをすると、やはり現代の抽象芸術みたいなものが出てくる。そういうところは案外と、それこそ地下水脈でつながっているのかもしれませんね。》(73-74頁)


《三浦 プラトンアリストテレスがもし生きていたなら、三位一体なんて馬鹿馬鹿しいということで終わったかもしれないけれど、その馬鹿馬鹿しさを必至になって論証しようとしていたら、結局、人間存在の機微に触れることになってしまった。まさにそこからきわめて精密な人間存在論が生み出されることになった。
神崎 そうですよ。その三位一体説というのは、まさにヘーゲルラカン、パースじゃないけれども、何でそのトリアーデに……。
三浦 固執するんだろう。(笑)全員が三という数字にこだわるんですよね。
神崎 なぜ三という数に非常に強いものがあるのかということですね。それはもうある意味ではヨーロッパの思想史を決定してしまうわけですから。たとえばデュメジルが印欧祖語にまでその原型を探る「三機能仮説」とか、プラトンの「魂の三分説」とか。
三浦 ヨーロッパだけではないでしょうね。三という数字には超越論的なところがあって、人間の経験を超えている。情報の伝達は二で行なわれるわけですが、そこに三という逸脱が登場して、この逸脱が結局、中枢を形成してゆくわけですね。神経細胞においてそうですね。人間は、一度会った、二度会った、三度会ったくらいまでは言うけれど、五回会ったとか九回会ったとかは言わない。何度もという言葉になってしまう。どんな言語においても三が一種の分岐点になる。
神崎 言語構造からもそうかもしれませんね。「こそあど」じゃないけれど、私とあなたと誰それさんという三もあると思います。
三浦 おそらく何か発生上の問題があると考えたほうがいいのでしょうね。》(129頁)


     ※
 これは後から気づいたことだが、上に抜き書きした二つの箇所は、同じ日に読んだ中沢新一「映画としての宗教 第二回 映画はキリスト教である」(『群像』3月号)の議論に関係してくる。で、これも「記念」に、さわりの一節を抜き書きする。


《イエスは神のエネルゲイアを人間の女性の身体で受けて、肉体的・物質的世界とのインターフェイス上にあらわれた現象です。これにたいして写真術は、外界の光をフィルムの感光乳剤の上で受けて、それをイメージに定着させる印インターフェイス技術です。そう考えてみると、イエスの存在そのものが、写真術を呼び寄せてしまうのかも知れません。処女マリアの身体から生まれた神の子として、イエスは超越的な神の本質を愛として理解したのです。そのとたんに、イエスのまわりには写真的・映画的概念にかかわるものごとが、いっせいに集まり寄ってくることになりました。イエスは写真術とアナロジカルな方法で地上にあらわれ、死しては聖骸布という神聖写真術の被写体となった方なのですから、キリスト教の思想じたいにどこか写真や映画を思わせる特徴がひそんでいたとしても、不思議なことではないでしょう。
 人間の論理的に思考する能力は、過剰性や放射性や増殖性をはらんだものを理解しようとするときには、かならずと言っていいほどに「トリニティ=三位一体」的なモデルを利用しようとします。木を木と言い、山を山と言い、水を水と言い、この世界のあるものを記号的な意味情報として伝えようとするときには、二元論のモデルで十分です。じっさい一切のものごとを情報化して記憶・計算・伝達するコンピューターは、0と1との二元論ですべての情報処理をすませています。
 ところが、木がただの木ではなくなって、なにか詩的な意味を含蓄するようになるときには、それではすまなくなります。「意味」の平面から過剰しあふれ出してくる「価値」の問題が、発生するからです。意味平面を垂直的に横断していく第三の力を考えにいれなければ、価値の問題は思考不可能です。そのために詩学は、言語学とは違って、増殖を本質とする価値なるものを理解に組み込むために、三元論のモデルを採用することになります。》(221頁)