自己投入(合体)と自己分裂(分身)、体験された現象

 『坂部恵集4』を買って、いつものようにあとがきと月報を読んだ。月報には池上嘉彦吉増剛造、両氏の文章が掲載されていた。どちらも面白かった。(肝腎の本文の方は、第1巻の「生成するカント像」をはじめから順を追って読み始めたものの、これに専念しているわけではないので、なかなか先に進まない。)
 吉増文は、あの独特の記法と独特の感覚(触覚、筆触、声調…)で綴られていて、よく理解できないところが多かったけれど、この人の文は、理解するとかしないとかを超えて、ダイレクトに声として届いてくる。「わたしちは、この〈メロディーをそえて創り出すこと〉を、氏の哲学(フィロロギー=文学)の芯のほとり or 辺りに、嗅ぎつけ、あたらしい、生の下草を摘みつづけて居ることは、ほぼ確実だと思われるところにまで、そんな柴折戸がかぜに揺れるところにまで、辿り着いたようだ。」
 池上文「日本語の〈主観性〉と言語としての〈原初性〉」は、以前、木村敏でやったように、その全文を書きうつしておきたいくらいに刺激的だった。(永井均西田幾多郎』の議論との接続線がたくさん引けた。)結局、ほとんど丸ごと抜書きしておく。


《〈認知言語学〉は〈話す主体〉の〈発話〉という営みに先行して行なう‘construal’(〈事態把握〉と訳されることが多い)という営みに注目する。つまり、〈話す主体〉(sujet parlant,locutionary subject)としての〈ひと〉は、言語化の対象とする事態についてそのどの部分を言語化し、どの部分を言語化しないか、そしてそれらをどういう視点で捉えるか、などを主体的に決める〈認知する主体〉(cognizing subject)として行動する(そして、その把握の仕方(construal)に沿って言語化の操作が進められる)という図式である。(ただし、その言語化に際しては、把握された内容が把握された通りの形で細大もらさず言語に移し変えられるという保証はないというのも前提である。)
 日本語のように、とりわけ「こころ、ことばに余る」というのが常態であるような言語を扱う場合、このような図式が合うことは明らかであろうが、それは今はさて措いて、一般に〈事態把握〉のレベルでは〈主観的把握〉と〈客観的把握〉と呼ばれる二つの類型のあることが認識されている。
 ここで言う〈主観的把握〉(subjective construal)とは、(日本語に翻案して言うと)〈主客合一〉の構図(つまり〈認知する主体〉が〈認知される客体〉の内に身を置くというスタンス)で事態把握が行なわれるという場合、〈客観的把握〉(objective construal)とは、〈主客対立〉の構図(つまり、〈認知する主体〉が〈認知される客体〉の外に身を置くというスタンス)で事態把握の行なわれる場合である。例えば次に掲げる(1)は〈主観的把握〉に基づく言語化、(2)は〈客観的把握〉に基づく言語化である。
 (1)国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
 (2)The train came out of the long tunnel into the snow country.(直訳、汽車が長いトンネルから雪国へと出て来た。)
(1)(川端康成『雪国』の冒頭の文)は、主人公(ないしは、主人公に自らを同化させた語り手)が自らの体験を語る文──従って、独白のことばのようにも読める文──である。主人公は自らの体験している状況の内に身を置いており、主人公を乗せて走る汽車は主人公の〈拡大エゴ〉となって、主人公自身の知覚の対象として客体化されることなく、従って言語化されていない。これに対し、(2)(Edward Seidensticker による英語訳)では、語り手は汽車の外のどこかに身を置いて、トンネルを出て自分のほうへ向かってくる(‘came’という述語動詞を参照)汽車を知覚の対象として客体化するという構図を採っているように読める。(この場合、語り手が汽車に乗っているということでも構わない。ただし、その際には、語り手の分身が汽車から出て外のどこかに身を置き、そこから自らのもう一つの分身を乗せた汽車を知覚の対象として客体化しているという構図になる。)
 文学作品にまで行かなくとも、この種の類型的対比は日常のことば遣いにも容易に(そして十分豊富に)認められる。例えば道に迷った時、日本語の話し手なら「ここはどこだろう」、英語の話し手なら“Where am !?”(直訳、「私はどこにいますか」)と言う。日本語では自己は観察の原点としてゼロ化、周囲の見える景色についてのみ問われている。英語では自己を他者として(つまり、“Where is she?”と言う場合と同じ感覚で)客体化する。
 過去における自己(あるいは他者)の体験を語るという場合にも、違った形でではあるが同じ類型的な対比が出てくる。日本語の話し手の場合は、現在時における語り手が自己を過去時における自己と合体させ、後者がまさに体験している折のスタンスで(従って現在時に妥当するような言語化の仕方で)語るということを比較的容易にする。(従って、いわゆる〈歴史的現在〉としては律することの出来ない程の現在形の混入が起こる。)英語の話し手にとっては、過去の自己は現在時における自己とは対立する客体として自然に扱うということですむわけである。日本語の話し手にとっては〈主客合一〉の構図を生む〈主観的把握〉が原型的な事態把握の型のようであり、そのためには時空の隔たりを越えての〈自己投入〉も辞さない。他方、英語(そして多分、現在の西欧語一般)の話し手にとっては〈主客対立〉を演出する〈客観的把握〉が基調のようであり、そのためには時空の隔たりを創出する〈自己分裂〉もためらわない。そして注目しておいてよいのは、〈主観的把握〉では〈認知する主体〉(従って〈話す主体〉も)が〈ゼロ〉として言語化されるということである。日本語話者におけるいわゆる〈主語省略〉の原点も、実はこの〈主観的把握〉への強い傾斜に見出すことができるはずである。
 (因みに、伝統的な日本語文法で〈現象文〉(「火事だ」、「雨が降ってる」など)と呼ばれるものが特別に取りあげられることのあるのは興味深い。この種の文は、実は〈体験された現象〉を述べているのであり、〈体験文〉とでも呼んだ方がその本質に近いであろう。この種の文にしばしば認められる逆説的な性格は、実は高度に〈主観的〉な描写そのものでありながら、高度に〈客観的〉な描写の文とも読めるということである。(1)の『雪国』の冒頭の文をも参照。)
 〈体験〉(つまり、身体を介しての直接の経験)を語るというのは、すぐれて〈主観的〉な営みであり、人間の言語使用のもっとも原初的な段階と想像される。そこでは、言語はまだ人間の身体性と深く関わっていたわけである。そのような言語が次第に〈いま・ここ〉の制約から解き放たれていき、同時に独話的な自己表出の機能を越えて対話を可能にするような間主観性を獲得し、一種の道具としての客観的な存在という地位に達する。この段階で、言語と身体の乖離も完成する──このようなシナリオを考えてみると、日本語は人間言語の〈原初的〉な姿を比較的よく残しているように思えてならない。》