くり返し、それを求めて立ち帰ってくるように誘うことをやめない力2


吉田秀和マーラー』(河出文庫


 詩人か作曲家か数学者。子供の頃、いつか自分が就くことになる職業、というか天職はこのうちのどれか一つ、あるいは複数のものを兼ねることになると信じて疑わなかった。「就くことになる」であって「なりたい職業」や「あこがれの仕事」ではなかった。天賦の才と運命によって、いつかおのずからそのようなものになっていくのだと思いこんでいた。だから詩人や作曲家や数学者になるための努力などは一切しなかった。
 長じて、人は生まれながらにして詩人や作曲家や数学者になるのではないことがわかってきた。
 ヴァレリーの『カイエ』に「グラディアートル」と題された断章群がある。グラディアートルとは有名な競走馬グラディアトゥールラテン語で表記したものだが、ヴァレリーはこれを「精神の調教、鍛練」の意味で使った。そのヴァレリー的な含意をもったグラディアートルに、ラテン語の本来の意味である「剣闘士」がもつフィジカルなニュアンスを加味した「調教」の長い期間をくぐり言葉や音や数理をさばく技術を体得してはじめて、人は詩人や作曲家や数学者になっていく。
 そのような調教の苦しみにたちむかい、かつこれに耐えぬく力(耐えぬこうと思える力)が天賦の才能であり、そうした調教の機会や指導者にめぐりあうこと、めぐりあわざるをえないことが詩人や作曲家や数学者にとっての運命なのではないかと、今はそう考えている。


 前置きが長くなった。
 なにが言いたかったのかというと、詩人か作曲家か数学者かのいずれかになる、あるいはそれらを兼ねる(詩も書き作曲もする)のではなく、人は同時に詩人であり作曲家であり数学者であることができるということだ。それが批評文を書くこと、とりわけ音楽批評家であることなのではないか。
 吉田秀和小林秀雄の「モーツアルト」を論じた文章がある。そこにこういった趣旨のことが書いてあった。いわく、あの論文の天才的独創性は日本語の力、日本語の天才と結びついたものだ。ほかのどこの国の人たちよりも日本語のわかる人たちの共感を呼び覚ますものになっている。つまり、他国語に翻訳されたら、ほとんどわからないのではないか。
 吉田秀和の文章を読んで私が感じたのは、他国語に翻訳されたら…のところ(吉田秀和小林秀雄批判)を除き、これと似たものだった。
 そうして、詩を書かずに詩人であること、作曲をせずに作曲家であること、公式の証明をせずして数学者であること、つまり詩や音楽や数学の精神や精髄、その技術性、客観性、形式性を過不足なく文章化し、かつそこに(けっして主観的、感傷的ではない、分析的といってもよい)抒情性や人を駆り立てる冷めたマグマのようなものを織り込んで表現することの生きた見本をそこに見出したのだった。
 たとえていうと藤原俊成や定家などの、日本の中世の歌論書が(ほんとうは)めざしていた文章が、小林秀雄という希代の文章家による屈折を経て、吉田秀和において結実した。そんななことが言えるのではないか。ほかのどこの国の人たちよりも日本語のわかる人たちの共感を呼び覚ますものでありながら、同時に、他国語に翻訳されてもそれと同程度に、いやそれ以上にクリアーにわかる批評文。
 それは、吉田秀和が本書のなかで書いている次の批判を、「心理」という語を「精神」(音楽や数学の精神というときの精神)におきかえ、かつ、「論理的判断よりも心理的アプローチ」を「論理的かつ精神的アプローチ」におきかえたときにみえてくるものなのではないか。


《一般に、この国の批評用語には演奏の仕方そのものより、演奏にみられる奏者の心理的状態のあり方に敏感な評語が豊富にみられる。これもおもしろい、日本の音楽批評の特質の一つではあるまいか。いや、この国の批評に論理的判断より心理的アプローチがより強く、かつ敏感に出てくるのはひとり音楽批評に限らず、文章や美術の批評文にもかなり強く出てきている傾向といってよいのではあるまいか。》(「カラヤンマーラーふたたび」113-114頁)


 それにしてもずいぶんひさしぶりに「文章」を読んだ。一字一句、一文一文に深みと味わいがあり、批評があり、つまり精神の躍動がある。何度でもくりかえし読みたくなるし、くりかえし読み、からだにしみこませることではじめて理解できる。それはちょうどCDを一度聴いたらそれでおしまいではなく、全曲もしくは気に入った箇所を何度も何度もくりかえし聴くことではじめてひらかれる世界があるのと同じことだ。
 さて肝心なマーラーのこと。
 これからしばらく、もしかしたら数年単位の長丁場にわたって、私はこの本を手引きに(とくに「マーラー」という題名の39の譜例が掲載された文章に導かれながら)マーラー交響曲を飽きるまでくりかえし聴くことになるだろう。私自身のマーラーをつかむまで。
 吉田秀和マーラーについて書くのは、そのときまで待たなければならないと思う。ここではただ心に残った箇所を抜き書きするにとどめておく。


《…マーラーの音楽で、まず、私のような聴き手にとって躓きの石になったのは、それがひどく主観的な性格をのっけから露骨に出していることだった。音楽の「対象」──というのも、おかしな言い方だが──になっているものが、「宇宙」だとか「自然の様相」だとか「救済」だとか、といった表象や思想であるような場合でも、それを考え、表現する作曲家の態度というのはきわめて主体的で、いってみれば、愛も宇宙の秩序も絶対自我みたいなものを離れて、その外部に存在するのではなくて、すべてが、これを想じる主体を通した視点、ないしは主体からの視点によって、価値づけられ性格づけられるといったところが、私には、はじめ馴染みにくかったのである。これはロマン主義といっても、シューベルトシューマンといった人びとのそれとは、まるで、違うものだ。彼の交響曲がどのくらいの長さになるか、その楽章の一つ一つの性格と様式と構造がどう構成され決定されてゆくか、すべてが、作曲家の「内部」の真実の表現としての役割からきめられることである。ソナタ形式とかロンド形式とか、あるいはレントラーとかいった形態をとっているときも、あれはベートーヴェンハイドンたちの音楽における形式とは、まるで違う根拠から生まれたものだし、結局は、同じ名で呼ぶのがおかしいくらい、違ったものになってしまうのだ、マーラーは、ある崩壊感覚を同時代の誰よりも鮮やかに表現するのに成功した最初の交響音楽家だった。
 それが、次第に、この音楽を、外側からでなくて、内側から、作者の内的な必然としての芸術として見るようになったのについては、いくつかの機縁があったのだが、その最大のものは、故バルビローリの指揮した《第九交響曲》を聴くようになってからである。》(「交響曲第八番」141-143頁)


《要するに、アルバン・ベルクアルノルト・シェーンベルクの音楽が、そこ[マーラー管弦楽曲]から切れ目なしに続くその世界がここにあるのである。ベルクが詳細を極めた分析を捧げ、シェーンベルクが終生、マーラーのための熱烈な擁護にまえあったのも故なしとしない。
 表現主義的なネオ・バロック。もし、こういう言い方が許されるなら、そうして、この言い方でヴィヴァルディたちのあの簡明なバロックでなく、モンテヴェルディのあの極度の劇的迫力とバッハ、ヘンデルの極度の緊張感のみなぎった音楽を指向するものを考えてもらえるなら、そう呼びたい音楽。》(「表現主義的ネオ・バロック 交響曲第九番」154-155頁)


マーラーは、ヴァーグナーが楽劇のなかで総合したものを、交響曲の枠の中でやろうとした。つまり交響曲の形式と枠を維持しながら、思想的な深さ、言葉を歌う人声、ロマン的な抒情性といったものを、そこに織り込もうとしたのである。その結果は曲は非常に膨大複雑なものにならざるをえなくなった。
 あるいは、もっと外側から見れば、彼の音楽は幾世紀にわたって蓄積されてきたヨーロッパ音楽文化の遺産の重みに押しつぶされ、それぞれの間で、矛盾し排斥しあうものがあっても、それを選び分け、とりのぞくのでなくて、何も彼も一身に背負い込んでしまった、いわゆる世紀末の混沌と苦しみの反映だともいえるだろう。マーラーの音楽までくると、われわれは、あのドイツ音楽の伝統が、あとからくるものにどれくらい重荷になってしまったかを感ぜずにはいられない。
 彼の作品には、天才的で絶妙な音楽的着想がふんだんにあるのだが、その反面あやうく通俗の域すれすれの感傷的な側面も聴き逃せない。》(「大地の歌」174頁)


 この最後の引用文を読むと、私は新古今時代、藤原定家の時代の和歌のありようを想起する。