くり返し、それを求めて立ち帰ってくるように誘うことをやめない力



吉田秀和マーラー』(河出文庫


 ここ一年近くマーラー交響曲を聴きこんでいる。聴きこむというほど集中しているわけではないけれども、時にネットからダウンロードした楽譜を眺めながら聴くこともある。(いつか「アナりーぜ」の真似事をやってみたいと思っている。)
 きっかけは昨年の3月10日、金聖響玉木正之マーラー交響曲』(講談社現代新書)を購入して読み始めたから。以来、未完成の第10番と通し番号のついていない「大地の歌」を含めて全11曲の制覇をめざし、ほぼ月に1曲のペースでCDを買いもとめは繰り返し聴くようになった。
 でもなぜ『マーラー交響曲』を読みたくなったのか。読書日記を読み返すと、DVDで「マーラー 君に捧げるアダージョ」を観て、ほぼ全編を埋めつくす濃密なマーラーの響きに魅了されとりつかれたから、と書いている。
 マーラーは聴かず嫌いだった。なのになぜ突然、一篇の映画を観ただけで強烈に惹かれ、大袈裟にいうと溺れるようになったのか。パーシー・アドロン&フェリックス・アドロン共同監督の作品の力だというよりも、それだけの音楽力をマーラー交響曲はもっていたということだと思う。
 マーラーの映画はそれ以前にもケン・ラッセルの「マーラー」を観た。なにか濃厚で多層的な意味と官能と感情が塗りこめられた、重苦しくも忘れがたい作品という印象が強く濃く残っている。
 マーラーと映画はとても相性がいい。「君に捧げるアダージョ」に流れていた交響曲第5番第4楽章アダージェットが、かのルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」にも流れていた。それだけのことなのかもしれないが、マーラー交響曲を聴いていると頭の中に映像が立ち上がる。それはいかに冷酷で非情な大自然の映像であったとしても、どこかに人間的な感情や思想のドラマを潜めている。
 マーラーの音楽は、一面でいうと旋律の音楽なのだ。これは、本書に収められた長篇論考「マーラー」のなかでの、シェーンベルクプラハ講演をふまえての著者の発言だが、マーラーの音楽が連想させる映像が倒錯的な人間臭さをたたえていることの根はここにあるのかもしれない。


マーラーの音楽の放射する魅力のうちの最も強烈なもの──聴く者を捉えて、全身的な陶酔の魔力の下におき、麻薬のように一種の中毒状態にまでひきずりこむ力。そして一度その甘美な恍惚にとらえられた経験のある者にとっては、およその中毒がそうであるように、もう、これでよいといって満足することも、飽きるということもなくなり、くり返し、それを求めて立ち帰ってくるように誘うことをやめない力。この力の最大の資源は、この彼の旋律の形成にあたっての「信じられないような」能力にあるのである。》(「マーラー」32頁)