現に書いている時間にダイブすること、批評の瞬間

 本の読み方にはいろいろある。決まった方法や作法というものはない。昔、ある人から、背表紙を凝視することも一つの読み方で、三木清がそういう趣旨のことを書いていると聞いたことがあるが、この記憶はあやしい。
 本の読み方に各種の方法があるとすれば、感想、書評の類にも同様のことがいえる。読まずとも書評は書ける。これはたしか、書評特集を組んだ『ダ・カーポ』の中条省平さんの文章に出てきた言葉だ。そういえば、最近、朝日新聞の読書欄に中条さんが書いた二本の書評(ドゥルーズの『シネマ2』レヴィ=ストロースの『神話論理1・2』)は、読まずに書いた書評の典型のように思える。中条さんがちゃんと読んで書いていたのだとしても、である。
 こう書いたからといって、読まずに書く書評のことを貶めたいのではない。熟読、精読の作業を経ないと書けない書評がある。それと同じで、読まないでおくことでしか書けない(読まなくても書ける、ではなくて)書評というものもあるのではないか、といいたいのである。


 保坂和志さんが『極太!! 思想家列伝』(石川忠司著)の文庫解説に、こう書いている。「誰よりも本人が認めているとおり、石川忠司は書くことが遅い。というかほとんど書かない。それは「読む」に全力を傾けるからで、それゆえ彼はノイズまで聴き取って、書き手が持つ形のない核を掴み出す。」これは実作家から批評家に投げ返される言葉としては、最高の部類に属するものだろう。
 保坂さんは、批評家、評論家は「読む」人ではなく「書く」人だ、つまり、自分が書きたいことを作家や作品に託して語るというスタイルを取るのが評論家だ、という。だから、「読む」をそこそこにしておかなければ、評論家の「書く」が壊されてしまう。「すぐれた作品」を読むことは、急流に身を投げるようなものだからだ。「読む」という行為は「一回性の出来事」で、「小説家や思想家たちが現に書いている時間にダイブすること」である。「歴史や社会学精神分析を評論の根拠に置き、読んだ作品を自分が事前に持っていた知の枠組みの中で腑分けすること」や、「事後的に確認可能な論旨や筋の流れをただ追うことなんかでは全然な」い。
 保坂さんが書いていることは、正しい。批評の一形式としての書評についても、同じことはいえる。
 ただ、注意しないといけないのは、「評論家は読むだけでは収入が得られないがためにやむをえず書いているわけではなくて、自分が書きたいことがやっぱりあるから書く」というのもやっぱり正しくて(おそらく前半の冗談の部分も含めて)、それは、たとえ「自分が書きたいこと」が出来合いの「文学観・人間観・自然観・世界観……等々」であったとしても、つまり「自分が事前に持っていた知の枠組み」や「事後的」な後知恵であったとしても、やっぱり正しい。(そのような批評、評論が「すぐれた作品」であるうるかどうかは、この際、別の話。)
 保坂さんが批判している、というより嫌悪しているのは、批評家、評論家が保坂和志の作品をダシにして勝手なことを書いていること、つまりライセンス契約もせずに勝手にキャラクターを使って商売していることではなくて(それもあるかもしれない)、「現に書いている時間」というものを抜きにして、「自分が書きたいこと」が書く前から判っていると思っているに違いない、批評家、評論家の弛緩した精神の態度である。
 だから、批評家、評論家が、「(保坂和志が)現に書いている時間」にダイブすることはなくても、批評家、評論家自身の「現に書いている時間」に身を投げ出して、ありうべき「保坂和志論」やもう一つの「『季節の記憶』論」を書きあげたとしたら、それが「すぐれた作品」であるかどうかは別として、少なくとも、保坂和志が「それは、保坂和志の『現に書いている時間』にダイブしていない」と批判することは筋違いになる。(ライセンス契約云々の問題は残るが。)
 批評家、評論家の書いた文章が「書き手(小説家や思想家)が持つ形のない核を掴み出す」ものであるとき、つまり「小説家や思想家たちが現に書いている時間」にダイブして書かれたものであるとき、批評家、評論家と小説家や思想家との間には最高の(親和的な)盟友関係が成り立つ。一方、批評家、評論家の書いた文章が「読み手(批評家、評論家)が持つ形のない核を掴み出す」ものであったとき、つまり批評家、評論家自身が「現に書いている時間」にダイブして書かれたものであったとき、批評家、評論家と小説家や思想家との間には最高の(敵対的な)盟友関係が成り立つだろう。
 私が、「読まないでおくことでしか書けない(読まなくても書ける、ではなくて)書評というものもあるのではないか」と書いたとき、書物との間に、あるいはその著者(小説家や思想家たち)との間に、「最高の(敵対的な)盟友関係」が成り立つ場合を念頭においていた。
(中条さんが朝日新聞に書いた二本の書評が「読まずに書いた書評の典型のように思える」と書いたのは、これとは全然違う意味だ。「読まずに書く」というのは、酒は呑んでも呑まれるな、というのと同じ趣旨で、あんなとんでもない本に「読まれずに」書くことは、奇手、禁じ手を含めて、よほどの藝がないとできない。)
 虚構の保坂和志保坂和志が現に書いていない『季節の記憶』を、端的にいえば、現実の保坂和志とその作品をダシにして、それとは現実的なつながりのないまったく新しい作家や作品を、つまりいまだ世に現れていない書物を創作するような書評。そんな書評=批評は、『季節の記憶』や保坂和志の作品を「読む」こと、「(保坂和志が)現に書いている時間」にダイブすることをしていては、とうてい書けるものではないだろう。書評家=批評家の「現に書いている時間」に保坂和志の「現に書いている時間」を取り込むことでしか、書けないだろう。


     ※
 上に書いた「批評の一形式としての書評」は、『ベンヤミン・コレクション4 批評の瞬間』(ちくま学芸文庫)の「解説」(浅井健二郎)に出てきた言葉で、そこにはまた、「「書評」という形式においては、批評の瞬間が、表現の比較的表層部に知覚されうるのではあるまいか」と書かれていた。以下、「批評の瞬間」という魅力的な語彙が出てくる箇所を抜き書きしておく。


《優れた批評作品はすべて、ある神秘的な瞬間を、みずからの言語運動の原点として秘めている──すなわち、〈批評対象の本質が、批判的感性により、批評の萌芽として直観される瞬間〉を。それが、本書に言う「批評の瞬間」である。ベンヤミンにとっての〈批評〉を最も簡潔に定義するならば、〈対象と言語的に関わる哲学的な法方〉ということになるが、批評の瞬間における直観の内容をこの方法に則って構成的に叙述したものが、彼の〈批評作品〉である。そして、それらの作品間に潜在する照らし合いを私たちの読みが発見するとき、それはすなわち、私たち内部への〈批評の瞬間〉の宿りにほかならない。》