『ニッポンの小説』その他

 久しぶりに予定のない時間がぽっかりできたので、たまたま手元にあった高橋源一郎著『ニッポンの小説 百年の孤独』をぱらぱらと眺め始めると、これがめっぽう面白く、きりのいいところで止めるつもりが止められず、とうとう最後まで一気読みをして、おかげで眼精疲労と肩凝りで積年の、というと大袈裟だが、このところ花粉症に痛めつけられ、知らぬ間に溜め込んでいたらしい疲れが、どっと吹き出した。
 気分転換に、自宅前の城のある公園を散歩していると、鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで天守閣の方から飛んできたが、フト柱を建てたように舞い昇ッて、さてパッといっせいに野面に散ッた――ア、春だ! 誰だか園路の向うを通るとみえて、自転車の音が虚空に響きわたッた……


 と、いま書いたような「散文」が生まれたのは明治の頃、イワン・ツルゲーネフの「あいびき」が二葉亭四迷訳で世に出た時のこと。(「私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、これでも原文はきわめておもしろいです」は現代文として、そのまま通用する。)それはまた、「ニッポンの小説」の誕生の時を告げる事件でもあった。
 なにを書くか、ではなくて、どう書くか。私が考えたことを文に書く、のではなくて、文体が考える。
 高橋さんは「それは、文学ではありません」の中で、内田樹が『他者と死者』で触れているレヴィナスを援用しながら、次のように書いている。


《わたしの考えでは、「存在論の語法」とは、何ものかを「存在」させようという語法です。そして、「文学」における、そのもっとも有効なやり口を、わたしたちが「リアリズム」と呼びならわしてきたことは、あなたたちもご存知のはずです。
「ニッポンの小説」は、というか、ほとんどの「文学」は、言葉を、何かを召還するために、「存在」させるために用います。そして、わたしたちも、ふだん、言葉を、そのようなものとして使うのです。
「リアリズム」とは、視覚的な何かに関するものです。「近代文学」は、「リアリズム」という、長い間欲してきた最良の武器を手に入れ、表現として最高のステージに到達することができました。
 目に見えぬものすら、見えるように描くこと。それは、ほとんど全世界を手に入れるに等しいことでした。だから、彼らは、もしかしたら存在していないのかもしれない「死者」さえ、目に見えるように描こうとしました。彼らは、「死者」さえ手に入れようとした。
 それこそが、彼らの願いだったのです。
 そして、「死者」は出現し、「生者」の望むことをしゃべったのです。どんな言葉で?
 もちろん「生者たちの公用語」である「存在論の語法」で。》(211-212頁)


 高橋さんがいう「生者たちの公用語」(現代を生きる私たちが、日々書いている文章)を生み出した張本人は、しかし、自分が提供した「ニッポンの小説」の文章に対して懐疑的だった。「書いていてまことにくだらない。子供が戦争(いくさ)ごッこをやッたり、飯事(ままごと)をやる、丁度そう云った心持だ。そりゃ私の技倆が不足な故(せい)もあろうが、併しどんなに技倆が優れていたからって、真実(ほんと)の事は書ける筈がないよ。」(「私は懐疑派だ」)
 その二葉亭四迷の懐疑について、高橋さんは「エピローグ」の中で、中沢新一の『芸術人類学』を援用しながら、次のように書いている。


《わたしの考えでは、フタバテイもまた、優れた作家の一人として、自分の内部に、表現すべき「なにか」を見つけようとしたのです。だが、フタバテイは、用心深く、すぐにその「なにか」に形や名前を与えようとはしませんでした。他の作家たちが、次々と、「なにか」を見つけ、勝利の雄叫びをあげている時も、フタバテイは、じっと黙って、その「なにか」を見つめていたのです。
 フタバテイが、自らの内部を覗きこんで発見した「なにか」とは、簡単にいうなら、「イヤ」の一言でした。どんな根拠も、理由もない、ただの「イヤ」でした。フタバテイは、そのことに気づいた時、困惑し、絶望したに違いありません。どこまで掘り下げても、そこにあるのは、たった一つの叫びだけだったのです。
 その「イヤ」という一言は、比喩的にいうなら、世界を合理的に考えようとする「意識」と、そのような「合理」に回収しきれない「無意識」、「芸術人類学」でいう、「流動的な心」の接触面から、出てきたのではないでしょうか。
 その「イヤ」は、二つの心の接触面から生まれる、他のたくさんの感情、あるいは感覚と同様に、本来、絶えず言語化されていくものです。
 フタバテイ以外の作家たちも、みんな、「イヤ」を発生させていたはずです。だが、彼らは、それをたちまち、言語へと回収していったのです。
 フタバテイには、「イヤ」を言語へ、日本語に変換することができませんでした。なぜなら、彼は、ロシア語を知っていたからです。


 フタバテイは、ロシア語と日本語を知っていました。二つの言語を知る、ということは、ただ複数の言語を知っている、ということとはまったく違います。
 二つの言語を知る、ということは、言語の構造性に否応なく気づいてしまう、ということなのです。
 フタバテイは、日本語とロシア語は大きく違っていると感じました。しかし、逆説的なことですが、「大きく違う」と感じることは、共通性を深く感じる、ということでもあるのです。そもそも、理解を絶して異なるものに、「違い」など感じようがないのですから。
 おそらく、フタバテイは、日本語とロシア語の相違を通じて、言語そのものが持つ冷たい物質性を知ったのです。もちろん、フタバテイは、後世、人々が、それを言語の「構造性」と呼ぶようになることなど、知りませんでした。
 フタバテイは、そのように感じる自分を拒否しました。言語というものを前にして、そこに、意味や物語を見出す前に、「構造」というものを感じてしまう自分自身にいたたまれなくなったのです。


 言語の危機が訪れる度、フタバテイのような作家が、召還されます。言語の危機とは、言語の構造性の露出です。そして、それが、その言語によって生きる社会の危機であることは、いうまでもありません。
 では、「ニッポン近代文学」は、「ニッポンの小説」は、いま、どんな危機を招来しているのでしょう。
 そして、その危機には、どんな処方箋が考えられるのでしょう。
 ただ一つ確からしいのは、もし、危機があるとするなら、それは、フタバテイが直面したものと、同じ本質を持っている、ということです。なぜなら、言語と人間をめぐる関係は、世界がどのように変化しても、同じ構造を持っているからです。
「起源」とは、言語と人間をめぐる関係の「起源」とは、単に、歴史的な起点を指すのではありません。それは、いまなお、日々、わたしたちによって、再生産されているのです。》(415-417頁)


 高橋さんは、自らのうちに二葉亭四迷を召還し、「ニッポン近代文学」の幕引き役をかってでている。
 それは、「プロローグ」の中で、すでに予告されていたことだ。高橋さんは、そこで、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』のラストシーン、無から生まれ、また無の中に消え去る運命にあるエンディーア家の歴史が書かれた一枚の羊皮紙を解読する、一族の最後の子孫、アウレリャーノになぞらえて、「もしかしたら、わたしは、最後のアウレリャーノのように、無の中に消え去ろうとしている自らの一族の運命を記述するために、作家になったのではないだろうか」(22頁)と語っていた。
 しかし、高橋さんの文章は、懐疑と絶望を、ではなく、不思議な明るさと未来への希望をもって綴られる。
 「ニッポンの小説」の離陸に立ち会いながら、同時に、異和をも表明していた夏目漱石の『夢十夜』。「自分の死」の細部について書かれた作品であり、「死者」に近づく「文法」の可能性を探った「言葉の真の意味で冒険的な作品」である古井由吉の『野川』。あるいは、川崎徹の『彼女は長い間猫に話しかけた』や猫田道子の『うわさのベーコン』。中原昌也の『名もなき孤児たちの墓』や『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』。
 それらの作品のうちに、高橋さんは、「言語というものを前にして、そこに、意味や物語を見出す前に、「構造」というものを感じてしまう自分自身」のひとつの系譜を見出している。言葉によっては、「リアリズム」というニッポン近代文学の武器によっては、召還されないもの(見えないもの、死者、「イヤ」、無意識、等々)とのコミュニケーションの可能性を見出している。
 そして、「およそ、言葉というもののふるまいの一切に、真剣に聞き入ることのできる場所、言葉というものがなにをしようとしているのか、言葉というものが、にんげんになにをさせようとしているのかを見つめることのできる場所、つまり、小説という場所」(446頁)に留まりつづけることを宣言して、本書を終える。


 石原吉郎の詩について書かれた文章が、とりわけ印象的だ。「暗喩」が禁じられている場所、「木」が「木」であり、「死者」が「死者」であるような場所で書かれた詩(「木のあいさつ」)。「狂った文法」で書かれていながら、同時に、ほとんど狂気に近いといっても過言ではない厳密さへの欲求をもって、これ以上はありえないほど精密な書かれ方をしている詩(「像を移す」「契約」)。


《「厳密さ」と「狂った文法」の共存。そんなことが可能でしょうか。
 可能です。「暗喩」が禁じられている場所なら、「木」が「木」であり、「死者」は「死者」であり、それ以上の解釈が拒まれている場所なら、生者が「死者」と共に歩むことのできる限界近くなら、そのことが可能であることを、この、現代詩にとって異類ともいえる詩人の作品は、我々に教えてくれるのです。》(233頁)


 ここに出てくる「場所」は、本書の最後に出てくる「小説の場所」のことである。
 いや、そんなことを書くと、小説と詩の違いをめぐる議論──詩には「細部」など必要ないのかもしれないが、小説の仕事とは、要するに、「細部」を描くことにある(116頁)とか、あらゆる言語表現は、〈意味〉と〈価値〉の両方を所有しているが、最終的に〈意味〉が散文の本質であり、〈価値〉が詩の本質である(392頁)とか──に、いくども立ち返りながら、そして、詩人がニッポンの小説に対して発する言葉(荒川洋治文芸時評という感想』)をずいぶん気にしながら、話を前に進めていく高橋さんに対して失礼かもしれない。


 高橋さんがとりあげた石原吉郎の三つの作品のうち、「像を移す」を転記しておく。


私へかくまった
しずかな像は
かくまったかたちで
わずかにみぎへ移せ
像のおもみが銀となって
したたる位置で
したたるとき
私へやがて身じろぐのは
位置と位置との間〔あわい〕ではない
もはや時刻のかたむきである


     ※
 高橋さんが書いている「最終的に〈意味〉が散文の本質であり、〈価値〉が詩の本質である」というのは、吉本隆明の『詩学叙説』に拠るもので、暗喩が禁じられた場所での厳密さと狂った文法の共存、云々で私が連想したのは、藤原定家の(「言語そのものが持つ冷たい物質性」を見据えた)歌論だった。
 というわけで、吉本隆明著『思想のアンソロジー』に収められた「感性の思想」を見てみると、西行と定家の歌に関する次の二つの文章が記憶に残った。(これはどうでもいいことかもしれないが、吉本隆明の文は、ふだん文章など書かない人のそれを思わせる、なんか変な感じの文章だ。)


西行の短歌(和歌)を天才的な素人の歌とすれば、定家は和歌史上はじめての専門歌人だった。西行は生涯の行脚僧として眼にふれる風景や庶民の生活など豊富だったので、それを自分の嘱目の自然と、自分の精神の動きとの接点での感慨をそのまま歌にした。「歌枕」など必要としなかった。夏の日、涼む木陰が欲しいと歌えば、その木陰がとうてい「歌枕」になるような勝景でなくても優れた歌にすることができた。これは当時として何でもない涼む木陰が欲しいというだけで歌になりうることを考えも及ばなかったと言う意味で、稀有のことだった。
 反対に桐火桶を抱えて暖をとりながら「歌枕」の空想的な景物を詠んだ定家は、歌は体験心や見聞感で作るものでなく、「言葉」で作るものだという観念をはじめて定着させた非凡な専門歌人だったと言えよう。》(77-78頁)


西行の自然と庶民とのあいだを行脚してあるく生活は、ひとりでに近代以後の言い方でいえば直喩の方法の原型ともいうべきものを生みだしたと言いうる。おなじように桐火桶を抱えてうそ寒い冬のさなかに歌の表現を苦吟して、何のために苦吟してまで歌を詠むのか。歌合せのあるときに「歌枕」を想像で詠み合って和やかに遊べばいいと思われていた時流のなかで、定家は近代以後で「暗喩」とも呼ばれている概念をおぼろ気な形で作り出した。歌はたしかに実体験した自然中心の生活を詠むものだという『万葉集』の短歌概念の外に、歌は「歌枕」のような架空の場所の自然や、想像上の架空の感慨で「言葉」だけで作ってよいという定家の理念と実行が、「暗喩」という近代西欧の詩概念に同じ方法を生みだしたと言ってよい。
 これは定家が「有心体」に重さの中心もかけた根拠であり、本歌取りを初学として肯定した根拠だと思える。簡単に言ってしまえば、「彼の眼は兎のように赤い」という直喩の表現とおなじ意味内容は、「彼の眼は兎だ」という暗喩で言うことができる。
 定家は苦吟のすえ、それを見つけだした。定家の歌は人工的な作りものをそれらしく見せているだけだと思えば、それは好みの問題ということになってしまうが、はじめて苦吟が「暗喩」をつくり出したとみれば、さすがにほとんどお座なりも歌の表現はないことがわかる。
 詩歌の歴史が、原住民語の名残をとどめた古謡を切りすて、短歌(反歌)を主流として万世一系を保持し得たのはここまでだとおもえる。》(79-80頁)


     ※
 『ニッポンの小説』を読み進めるうちに、二葉亭四迷が面白くなってきた。
 秋山駿著『私小説という人生』に、『平凡』をとりあげた章がある。著者が、「『平凡』の中で、もっとも高揚した、精彩ある文章」と評している個所に、惹かれた。


《好(い)い声だ。たッぷりと余裕のある声ではないが、透徹(すきとお)るように清い、何処かに冷たい処のあるような、というと水のようだが、水のように淡くはない、シンミリとした何とも言えぬ旨味(うまみ)のある声だ。力を入れると、凛(りん)と響く。脱(ぬ)くと、スウと細く、果は藕(はす)の糸のようになって、此世を離れて暗い無限へ消えて行きそうになる時の儚(はかな)さ便りなさは、聴いている身も一緒に消えて行きそうで、早く何とかして貰いたいような、もうもう耐(たま)らぬ心持になると、消えかけた声が又急に盛返して来て、遂にパッと明るみへ出たような気丈夫な声になる。好(い)い声だ。節廻しも巧(たくみ)だが、声を転がす処に何とも言えぬ妙味がある。ズッと張揚げた声を急に落して、一転二転三転と急転して、何かを潜って来たように、パッと又浮上(うきあが)るその面白さは……なぞと生意気をいうけれど、一体新内(しんない)をやってるのだか、清元(きよもと)をやってるのだか、私は夢中だった。
 俗曲(ぞっきょく)は分らない。が、分らなくても、私は大好きだ。新内でも、清元でも、上手の歌うのを聴いていると、何だか斯う国民の精粋とでもいうような物が、髣髴(ほうふつ)として意気な声や微妙な節廻しの上に顕(あら)われて、吾心の底に潜む何かに触れて、何かが想い出されて、何とも言えぬ懐かしい心持になる。私は之を日本国民の二千年来此生を味うて得た所のものが、間接の思想の形式に由らず、直(ただち)に人の肉声に乗って、無形の儘で人心に来(きた)り逼(せま)るのだとか言って、分明な事を不分明にして其処に深い意味を認めていたから、今お糸さんの歌うのを聴いても、何だか其様(そん)なように思われて、人生の粋(すい)な味や意気な味がお糸さんの声に乗って、私の耳から心に染込(しみこ)んで、生命の髄に触れて、全存在を撼(ゆる)がされるような気がする。》(『平凡』五十三)


 この引用に続く、秋山駿の文章。


《二葉亭が、ここでは懐疑を捨てて、「声」を抱き締めている。歌声と一体化し、溶け合っている。つまり、心が、現実とか存在とかを抱いていかなる隙間もない。心と現実とが溶け合うところに生ずるのが、精神であろう。精神の声であろう。前半の、声の抑揚というか生の響きを描くところは、絶品である。
 後半の、「国民の精粋」とでもいったものが、「吾心の底に潜む何かに触れて、何かが想ひ出されて、」というところ、これは私にも実感がある。弱年の時だった。私は道を歩きながら思わずハタと立ち停って動かなくなった。どこかの家から新内だか清元だかそんなことは知らぬが俗曲が聴こえてきて、それが、「私の耳から心に染込むで、生命の髄に触れて、」という感を受けた。
 あれはいったい何だったのか? 引用の続きで二葉亭が、お糸さんの「体に俗曲の精霊が宿ってゐる、」「俗曲の巫女〔いちこ〕である、薩満〔シャマン〕である」と言っているが、私はときに美空ひばりの歌声を聴くと、あの弱年の感覚が甦る。》(148頁)


     ※
 以上に書いたことと、まるで関係ない話だが、佐藤優著『自壊する帝国』の「あとがき」の、『国家の罠』出版後、著者の身辺に起きた変化について書かれた個所に、「現在は猫を膝に抱きながら、南北朝時代南朝側の歌集『新葉和歌集』(岩波文庫、一九四○年)を読んだり、十五世紀の神学者ヤン・フス『教会についての論考』(MISTR JAM HUS, TRACTATUS DE ECCLESIA, PRAHA, 1958)を中世ラテン語から少しずつ訳している。」(412頁)とあった。