『物質と記憶』(第22回・補遺の1)

小林秀雄は『感想』で次のように書いている。

《私は、ベルグソンの著作に、文学書に接するのと同じ態度で接して来た。作者の観察眼の下で、哲学という通念が見る見る崩壊して行く有様に、一種の快感なぞ感じたりして、自分の読み方は十分に文学的であると思っていた。だが、今にして思えば、少しも十分ではなかったのである。様々な普遍的観念の起原や価値をめぐる問題に関する論争で、哲学史は一杯になっているのだが、もし、そういう所謂哲学上の大問題が、言葉の亡霊に過ぎぬ事が判明したなら、哲学は「経験そのもの」になる筈だ、とベルグソンは考えた。実際、自分の哲学をそういうものにした。哲学という仕事は、外観がどんなに複雑に見えようとも、一つの単純な行為でなければならぬ。彼は、そういう風に行為して、沈黙した。彼の著作は、比類のない体験文学である。体験の純化が、そのまま新しい哲学の方法を保証している。そういうものだ。》(新潮社『小林秀雄全集』別巻Ⅰ,19頁)

小林秀雄は続けて、『物質と記憶』を熟読するものは少ないだろうが、『創造的進化』なら買ってみる人は多かろう、それはベルクソンの著作のうちで一番文学的であり、いわば「生物学的叙事詩」であると書いている。
「彼は、たまたま文才のあった哲学者という様な人ではない。生れながらの詩人が文才と衝突するのと全く同じ具合に弁証法の才と衝突した哲学者なのである。」
以下、「詩人の宝は、自ら体験したもの感得したものだけだ」云々と、熊野純彦氏が『メルロ=ポンティ──哲学者は詩人でありうるか?』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版)の冒頭に引用した文章が続く。

《体験したもの感得したものは、言葉では言い難いものだ。という事は、事物を正直に経験するとは、通常の言葉が、これに衝突して死ぬという意識を持つ事に他ならず、だからこそ、詩人は、一たん言葉を、生ま生ましい経験のうちに解消し、其所から、新たに言葉を発明する事を強いられる。ベルグソンが、自ら問うたところは、こういうやり方は、果して詩人の特権であるか、それとも、詩人の特権と見られるほど深く世人の眼に覆われて了った当り前な人生の真相なのであるか、という事であった。
 彼は先ず「意識の直接与件論」でこの問題を提出した。誤解を恐れずに言うなら、それは、哲学者は詩人たり得るか、という問題であった。》(20頁)

──この話題はここで終わる。
物質と記憶』第四章の冒頭(204〜210頁)に、関連する叙述が出てくる。
このあたりのことを、ベンヤミンの言語論や経験論と関連させてみると面白いと思う。