『物質と記憶』(第22回)

物質と記憶』独り読書会を再開した。
先々週、一気に終章を読み飛ばしてしまい、なんとなく「読了」した気分になっている。
まだ巻末の「概要と結論」を読んでいない。
それでなくとも、第四章でのベルクソンの思考を追体験する作業をさぼっている。


この「読書会」を始めたとき、心に決めていたことがあった。
それは、けっして読み急いではいけないということだ。
細部の議論にこだわらず粗視的に全体を俯瞰したり、遡ってざっとこれまでの叙述を眺めることは時折必要だと思う。
しかし、それは議論の流れを見失わないための補助作業であって、基本は、一字一句おろそかにせず、丹念に逐行的に読み込んでいくことに徹しなければならない。
判らないところは何度でも足踏みをし、読み返し、できれば(判らないままに)細部の思考の流れをソラで反復できるほどに読み込む。
これは私の書いた文章だと思い違いをするほどに読み込むこと。
そして何度でもそこに立ち返り、日所座臥の折節に反復すること。
だから、この本を(判る判らぬにかかわらず)最後まで読み終えるのに最低1年はかかるだろうとふんでいたのだった。
もっとも避けなければならないのは、いささかの抵抗感も覚えずに、すらすらと読める状態に陥ってしまうことだ。
それだと、読む前から判っていたことをただなぞっているだけのことで、判ること、判っていると思うことの実質を問う動機がなくなる。
少なくとも哲学書を読む意味はそこにはない。
それよりもむしろ、判らないまま読み終える方がはるかに意味がある。
理解不能な巨大な謎をかかえこんで、右往左往、七転八倒する身体のあり様を、文字通り身をもって体験できる。


いま、ちょっとした曲がり角を迎えている。
ベルクソンの議論がすべて判ってしまう。
どんなことが書かれていても、直ちに理解してしまうのである。
たとえば次の文章を、いまの私はいっさいの抵抗もなく受け入れる。

延長をもつ物質は、全体として考察すれば意識のようなものであって、そこではすべてが平衡を保ち、補い合い、中和しているのである。それはまぎれもなく私たちの知覚の分割不可能性を呈示するのだ。そういうわけで私たちは、躊躇なく物質の延長の何ものかを、知覚に帰することができるのである。知覚および物質というこの二つの言葉は、私たちが行動の先入観ともいうべきものから免れるにつれて、このように互いに歩みよる。感覚はひろがりを回復し、具体的延長物はその連続と自然的不可分性をとりもどす。また両項の間に越えがたい障壁として立っていた等質的空間は、もはや図式あるいは記号の実在性以外には実在性をもたない。それは物質に働きかける存在の活動にはかかわりをもつけれども、その本質を思索する精神の努力にはかかわりをもたない。

 まさにこのことから、私たちの全研究の焦点をなす問題、すなわち精神と身体の統一の問題が、ある程度まで解明される。二元論的仮説でこの問題がやっかいなのは、物質を本質的に分割可能なものとみなし、精神の状態を、厳密にひろがりのないものとみなすことによって、はじめに両項の連絡を絶ってしまうところからくるのである。それで、この二重の要請を深く追求してみると、物質にかんしては、具体的な不可分の延長とその下にひろがる空間との混同があり、同じくまた精神にかんしても、延長と非延長との間には、程度もなく可能な推移もないという幻想的観念がそこに発見される。しかしこの二つの誤りが共通の誤りを内に含み、観念からイマージュへ、またイマージュから観念への漸次的移行があり、精神の状態はこうして現実すなわち行動へと発展するにつれてそれだけひろがりに近づき、最後に、ひとたび獲得されたこのひろがりは、あくまでも不可分であって、それゆえに精神の統一となんら不調和を来たさないとすれば、精神は純粋知覚の働きにおいて物質と重なり、その結果物質と合一するけれども、それにもかかわらず根本的に物質から区別されることがわかる。精神はこの場合すら記憶力、すなわち未来をめざしての過去と現在の総合であり、この物質の諸瞬間を集約して利用し、その身体との統一の存在理由である行動を通じてあらわれようとする点で、物質から区別されるのである。したがって本書の冒頭で、身心の区別は空間の関数としてではなく、時間の関数として打ち立てられるべきだとのべたことは、正しかったわけである。(245-246頁)

この文章に書かれていることの、いったい何が判っているというのだろう。
判るとはどういうことなのだろう。
言葉でのべられたことの意味が判ることと、「精神と身体の統一の問題が、ある程度まで解明される」こととは一致するのだろうか。
こうして、独り読書会が再開される。
今日のところは、巻頭の「第七版の序」を読み返し、「概要と結論」の前半にざっと目を通した。
一から出直し。