「商業用語について」・その他

昼前まで寝ていた。
泥睡という言葉があるのかどうか知らないけれど、夢も見ずただひたすら眠りつづけて飽くことがないのは随分久しぶりのこと。
たぶん夢は見ているのだろうが、それは目覚めとともにどこか知らないところにストックされてしまって、二度とアクセスすることができない。
空虚な充実とともに起床し、朝昼兼用の食事をすませてから、近所の図書館で本を数冊返して、また何冊か借りてきた。
そのなかに、網野善彦さんの『歴史を考えるヒント』(新潮選書)がある。
連続講演の記録をもとにつくられたもので、とても読みやすい。


「商業用語について」の章が面白くて楽しい。
たとえば「市場」の本来の読みは「いちば」で、もともと「市庭」と表記されていた。
このことは知っていたけれども、「相場」も最初は「相庭」と書かれていたことは初めて知った。
庭は「人々が共同で何かの作業や生産、あるいは芸能を行う場所」を意味していた(「狩庭」「網庭」など)。
後に「諸国を遍歴する人々が自らの芸能を演ずる場」であるとともに、その「縄張り」を意味する言葉にもなっていった(「塩庭」「稲庭」「乞庭」「売庭」「立庭」「舞庭」など)。
そして庭は「最高の権力者に直結する場」でもあった(「朝廷」も本来は「朝庭」)。

このように、庭は本来、私的な関係を越えた、特異な空間を表現する言葉だったと考えられます。個人の家の塀や垣根に囲い込まれた現在の庭園とは性質の異なる場と考えなくてはなりません。ですから「市庭」も、「市が立つ庭」つまり共同体を超えた交易の行われる場を示す言葉だったのです。

以下、市庭と無縁の場、市庭と歌垣、市庭と都市と話が進む。
小切手や切手や酒手の「手」には交換という意味が含まれていた。
「切手は「切られる」ことによって「無縁」なものになり、相互に交換が行われるようになった文書を指していた」。
「聖なる金融から、俗なる金融へ」。
株売買の際の最初の値段を「寄付」というが、「寄る」という語には「人の力の及ばない世界から何かがやって来る」という意味が含まれていた。
等々の話題が出てくる。


東レパン・パシフィックテニスの準決勝シャラポワヒンギス戦をTVで観戦し、そのあと茂木健一郎さんの『プロセス・アイ』を半分まで読み、ヒッチコックの『三十九夜』を観て、休日が終わった。