『物質と記憶』(第19回・補遺)

昨日、『物質と記憶』の結論が見えている、そういう頭で読み進めてはいけない、もっと細部を細かく割って読まなければいけないと、自戒の言葉を書き連ねた。
これを言いかえれば、よく判らない箇所がある、そういうところを読み飛ばしてはいけない、というしごく当たり前のことだ。
たとえば、「純粋持続の理論を物質に適用して、アフォーダンスの理論の先触れのようなことを述べたり、物質をその背後にひろがる「記号的図式化」(等質的空間)から解放する直接的認識の可能性に言及したくだり」とおぼろげに要約しておいた次の箇所。
昨日抜き書きした文章に続くもので、冒頭「この方法」と書かれているのは「再び純粋持続に身を置く」こと。

 この方法が、物質の問題に適用されうるだろうか。問題は、カントの語ったこの「現象の多様」の中で、ひろがりをもつ傾向のある漠然たる総体が、──ちょうど私たちの内的生活が再び純粋持続と化するように無限の空虚な時間から分離されえたのと同じく──その押しあてられる場所であり私たちの手でそれを分割する媒介でもある等質的空間のこちらがわで、つかまりそうかどうかを知ることである。もちろん、外的知覚の基本的条件を超えようなどと企てるのは空想もはなはだしいだろう。しかし私たちがふつう基本的とみなしているある種の条件は、私たちが事物についてもつことのできる純粋な意識よりも、むしろはるかに事物の使用、その実際的効用にかかわるものでないかどうかという点に問題がある。さらにくわしくいえば、具体的で連続し、多様化しつつもまた組織された延長にかんしては、背後にひろがる無定型な活力のない空間と結ばれているということに異議を申し立てることもできるのだ。その背後にひろがる空間は、私たちが無限に分割し、そこから任意に図形を切りとるものであって、そこでは何ものも過去と現在の凝集を保証しないから、運動そのものも、他のところでのべたように、ただ瞬間的位置の多様性としてあらわれるにすぎないのである。だから、ある程度まで、延長を去ることなく空間からはなれることができるわけであり、この点にこそ直接的なるものへの復帰があるだろう。というのも、私たちは空間を図式的にとらえることしかしないけれども、延長はというと、それこそ本当に知覚するからである。この方法は、直接的認識に、得手勝手に特権的価値を付与するものとして非難されるだろうか。しかし私たちは或る認識を疑うという考えそのものをいつか抱くことはあるにしても、反省の示す困難や矛盾なしには、哲学の提起する諸問題なしには、疑うべきいかなる理由もない。そのさいもしこれらの困難、矛盾、問題が、とりわけこの認識をおおいかくす記号的図式化から生まれるということ、すなわち私たちにとって実在そのものと化し、高度な例外的努力のみがその壁を突き破るのに成功する記号的図式化から生まれるということを明らかにすることができれば、直接的認識はそれ自身の内に正当な根拠と証明を見いだすのではあるまいか。(209-210頁)

この文章が「延長をもつ物質は、全体として考察すれば意識のようなものであ」るという驚くべき命題、しかし「物質はイマージュの総体である」からの当然の帰結に関係していることはよく判る。
が、いまひとつ頭の中にすっきりと入ってこない。
たんなる国語の問題なのかもしれない。
『意識に直接与えられたものについての試論』を再読すれば、それですむことなのかもしれない。
後に続く議論を読めば、すんなり理解できることかもしれない。
いずれにしても、この「よく判らない」という感じは大切にしなければいけない。
と、また自戒。