『日本仏教史』

仏教熱が高じてめらめらと白い火が熾っている。
仏教そのものというより、日本仏教思想史への強烈な関心が沸騰しはじめた。
歌論書はどうなる。心敬はどうする。
内なる声が警告を発するが、この際無視する。
『名僧列伝』では欲求不満が残ったので、運命の本というと大袈裟だが、この飢えを癒してくれる書物との偶然の出会いを求めて数日におよぶ書店めぐりを敢行し、ようやく一冊の本にたどりついた。
末木文美士著『日本仏教史──思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)。
まだ読みもしないであれこれ書くのもどうかと思うが、この本には今の私が求めているすべてがある。
根拠のない決めつけだが、長年の経験から、こういう時の直感はたいがいあたると確信している。
買ったのは先週の火曜日だが、諸般の事情からぜんぜん手がつけられない。
「序章にかえて」だけ読んだ。
そこに出てきた次の文章が目をひく。

…一概にはいえないが、どうも仏教には定着しにくい一面があるような気がする。思想の次元でいえば、例えば、「空」という発想にはどうにも落ち着きの悪さがある。「空」は「有」として安定することへの絶えざる否定であるから、定着することをはじめから拒否している。その否定のエネルギーが、インドや中国という巨大な伝統をもつ文明においてさえ、一時期強烈な衝撃となるが、それがヴェーダーンタなり儒教なりの伝統思想のなかに吸収されることによって、はじめて安定した構造をもち得るのではないだろうか。まあ、これはいささか勝手な大風呂敷だが、日本の場合だって、それほど「日本」と「仏教」とは自明の調和関係にはないことは確かだ。(13頁)

定着しにくいということは、伝統になりにくいということである。
それは「日本の思想」についてもいえることだ。
定着しにくいもの同士が「日本仏教」としてくっついている。
(いや、かつてくっつき定着したことがある。現在はどうか。それは知らない。)
しかも「日本仏教史」である。
定着しにくいものの歴史を語るとは、なんと難儀なことだろう。
「序章にかえて」の冒頭で、著者は「日本では自国の過去の思想を思想史として定着させることができなかった」(9頁)と書き、丸山真男の『日本の思想』からの文章を引用している。