宗教・経済・科学・芸術(続々)

『日本中世に何が起きたか』に、網野善彦・廣末保の対談「市の思想」が収録されている。
そこで、廣末氏が「市というものは宗教的問題もあるし、交易の問題もあるし、芸能の問題もある」と語っている。

近世になると、歴史のことはよくわかりませんけれども、商業的な場所というのはそれなりに自立してきます。それと同時に芸能とか、また売春的な要素を持っているもの、これは非常に未分化ですけれども、そういうものが悪所になってくる。市が分化していく過程を近世の中で見ていくと、悪所的なものと商業的なもの、それから宗教的なものと制度的なものに分けられていきますね。その中でぼくは、市の持っている超越性という性格が一番近世的な形で残っているのは悪所じゃないかという気がしているんです。
 その超越性の中には宗教的な要素と、それから天皇のように領主を超越した、ある意味で観念的な、普遍的なレベルのものともつながりがありますが、一方で交易という問題、商業とか交換とかいうものの持っている超越性というか、つまり村落的なものを超えて交換する場所では、交易そのものが人間の観念を変えてしまうということがある。(83-84頁)

ここにも「宗教・経済・科学・芸術」が登場する。
ただし「科学」は、たぶん「歴史」をめぐる学のうちに包含されている(科学<歴史<物語<神話?)。
ちなみに、ここに出てくる「芸能」について、網野氏は次のように語っている。

中世の段階では、実際、商人も芸能民に入るんですね。商人だけでなく、呪術者、宗教人も手工業者もいまのような狭い意味ではなくて、ひっくるめて全部「芸能」という言葉でくくっている。博打なんかも芸能民なんですね。勝負師の世界というのは、近世ではそれなりに分化して独立した世界になるんでしょうけれども、中世では未分化なんですね。それが「芸能」という言葉で全部ひっくくられていることに一つの意味があるような気がするんです。(91頁)

宗教と芸能と交易。
市場(市庭)という「無縁の原理」がはたらく境界的な場の問題系をかたちづくるこれら三つ組は、スティーヴン・ミズンが『心の先史時代』で述べた、ネアンデルタール人の「特化型の思考様式」を構成する三つの知能、すなわち博物的知能・技術的知能・言語知能を思わせる。

現代人類の心への進化の決定的な一歩は、スイス・アーミー・ナイフのような構成の心から認知的流動性をもった心への切り替わり、特化した心から一般化した心への切り替わりだった。これにより、人間は複雑な道具を考え出したり芸術を創造したり、宗教的なイデオロギーを抱いたりすることができるようになった。(中略)一○万年前から三万年前にかけての特化型から一般型への心の切り替わりは、進化が選んだ驚くべき「一八○度転回」だった。そこにいたる六○○万年間の進化では、心の専門化がどんどん進んでいた。博物的知能、技術的知能、ついで言語知能が、現生の類人猿と人類との共通祖先[コモン・アンセスター]の心にすでに存在していた社会的知能に加えられていった。しかしさらに驚くべきことに、特化型の思考様式から一般型の思考様式へのこの新たな切り替わりは、現代人類の心への進化の途上でだけ起こった「一八○度転回」ではない。もし心の進化を、たかだか六○○万年のこの先史の中だけでなく六五○○万年にわたる霊長類の進化の中に位置づければ、専門化と一般化の思考様式の間を行ったり来たりする動きが見てとれる。(松浦俊輔他訳)

さらに引用を加えると、吉本隆明が「マルクス紀行」でマルクス思想の三つの旅程を論じている。
すなわち「<自然>哲学の道」「宗教から法、国家へと流れくだる道」「市民社会の構造を解明するカギとしての経済学」。
この文章が収録された『カール・マルクス』の文庫解説で、中沢新一はこれら三つ組をボロメオの輪のように結びつきマルクス思想の統一核をなす三位一体になぞらえ、それぞれをラカン現実界想像界象徴界に対応させている。

マルクスはいわば精神の底に、このような[人間の精神に内在する非幻想的な活動領域として理解されたエピクロス的な]霊魂の活動領域への通路が開かれていることを主張する古代の自然哲学者の所説のうちに、もっとも徹底した唯物論の萌芽を見いだしていたのである。つまり、自然哲学へののめり込みをとおして、若いマルクスは人間の幻想を突き破ったところに出現する、絶対的なリアル(現実的なもの)を、まず「自然」として発見したのだった。/そこからマルクスは「三位一体」の第二の環をなす、人間の幻想領域[宗教・国家・法]の研究に踏み込んでいくことになる。(略)
 幻想は「リアルなもの」を否定しようとする。しかし、その否定力そのものの根源は、非幻想的でリアルな「自然」の内部にひそんでいることになる。このように、「自然」と「幻想」はたがいに否定しあうようにしながら、ひとつに結びあっている。「三位一体」におけるこの環の部分は、だから簡単にほぐれてしまわないようにできている。そう考えてみれば、自然哲学から宗教・国家・法という幻想領域の研究に進んでいったマルクスの歩みには、深い理由があったわけである。
 しかし、個人の抱く幻想性は、共同生活の中でたわめられ、平準化されなければならない。人間はことばを語って、コミュニケーションをする。この言語習得の過程をつうじて、「幻想的・想像的なもの」は「象徴的」なものにつくりかえられ、共同生活を可能にしていく条件が整えられる。私たちは言葉をしゃべるようになり、共同性を身につけるようになってから、それ以前の自分の心を支配していた幻想性を思い返して、幻想性がことばのような「象徴的なもの」の効果として発生するように考えがちだが、ほんとうのところは、人の心にあってはまず幻想性の基体ができあがったのちに、それを否定的につくりかえるようにして、「象徴的なもの」とそれが生みだす心の秩序ができてくるのである。ここでも、「幻想的なもの」と「象徴的なもの」は、たがいに否定しあいながら、ひとつに結びあっている。(略)
 「経済的カテゴリー」はほかの「象徴的なもの」の諸様式、たとえば言語や記号によるコミュニケーションと多くの共通性をもつとはいえ、価値の増殖をおこなっていくという、きわだった特色をもっている。資本と呼ばれるものが、その価値増殖を実現している。『資本論』に結実したマルクスの研究は、この価値増殖の過程で、労働に内在している「自然」過程が、決定的な働きをおこなっていることをあきらかにしている。/つまり「経済的カテゴリー」と「自然」とは、ここでもひとつに結びあっているのである。(中沢新一マルクスの「三位一体」」)

無縁の場にかかわる三つ組の問題系のうち「宗教」(あるいは霊性)は「自然=リアルなもの」に、「芸能」は「宗教・国家・法=幻想的・想像的なもの」に、「交易」は「経済的カテゴリー=象徴的なもの」にそれぞれ対応している。
それでは、「科学」は?