宗教・経済・科学・芸術(続)

同時進行的に複数の本を併読していると、いろいろと面白い発見や過去の読書体験の蘇りなどがあって飽きない。
昨日書いたことと関連して、気になっていることがあるので書いておく。


最近、柄谷行人『世界共和国へ──資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)と網野善彦『日本中世に何が起きたか──都市と宗教と「資本主義」』(洋泉社MC新書)の「回し読み」をやっている。
この二つの書物を微に入り細に入り比較検証してみると、なかなか面白い。
柄谷本の高次に抽象的な議論を網野本の猥雑なまでの具象性でもって解毒する、といったところ。
吉本隆明の『カール・マルクス』と『最後の親鸞』をこの二冊と組み合わせて、バイロジカルな(?)回し読みをするともっと面白い。
が、今日のところはそこまで話題を拡げられない。
なにせ、まだ部分的に読み囓っているだけで、いずれも最後まで読破していないのだから。
網野氏が「境界に生きる人々」と題した講演の中で、次のように語っている。

かつて、私が、「無縁」と表現したことについて、中沢新一さんが、これは「資本主義」ではないかといったことがありますが、そう言われれば、商業、金融、技術、そして貨幣も「無縁」ということになるので、確かにこれはやがて資本主義として展開していく諸活動、諸要素であります。このことは逆に今まで資本主義の発達として経済学の分野からだけとらえられていた社会の動きを、もう一度、このように自然と人間の関係、宗教の問題の中で、根源に遡ってとらえ返してみる必要のあることを教えている、と私は考えます。(『日本中世に何が起きたか』44-45頁)

ここに出てくる四つ組の言葉、つまり「商業、金融、技術、そして貨幣」が、昨日とりあげた「経済・宗教・芸術・科学」と、いま並べ替えた順番で対応しているように私は思った。
この順番は仮のもので、今後、思索の深まり(?)とともに修正されていくかもしれないけれど。
気になっていることというのは、この対応の上に、柄谷氏がいう交換の交換様式、つまり「互酬(贈与と返礼)・再分配(略奪と再分配)・商品交換(貨幣と商品)・X」がどう関係していくかということだ。
精確に書いておくと、どう関係づけたら面白いだろうかということだ。
たぶんそれは、中沢新一風に言えば、高次元でバイロジカルにからみあっているのだと思う。
そもそもそんな対応を考えること自体がおかしい、と言われればそれまでだけれど。