『美と宗教の発見』第二部(承前)

坂部恵『仮面の解釈学』によると、日本の古語における「しるし」とは「一つの現象[あらわれ]が、他のことなった現象[あらわれ]をしるしづけるところに成立する二重化された現象[あらわれ]にほかなら」(163頁)ず、「しるしにおいて、〈しるすもの〉と〈しるされるもの〉の間に、絶対的な序列は存在しない」(165頁)。

この点、〈しるし〉という日本語は、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の両側面をもつものとしてとらえられ、イデア界的な〈生ける現前〉としての〈先験的な意味されるもの〉le signife' transcendantal の先在という〈現前の形而上学〉を背景にもつものとして、デリダがやっきになってその解体をくわだてる〈記号〉signe の概念とは別物である。〈しるし〉の背景には、そのような、究極の〈しるされるもの〉の(いわゆる超感覚的・可想的な世界の)存在を想定する形而上学は、もとからして、ない。
 しるしとは、すでにみたように、二重化された現象[あらわれ]にほかならない。〈しるすもの〉がひとつの現象[あらわれ]であるのとおなじく、〈しるされるもの〉もまた、もうひとつの現象[あらわれ]以上のものではない。したがって、〈しるすもの〉と〈しるされるもの〉の関係は、場合に応じて、逆転可能である。(165頁)

坂部恵の論は、これにつづいて「しるし」のさまざまな変奏形態をたどり、さらに「うつし身」へと転じ、さいごに「ことだま」へといたるのだが、このそれ自体ひとつの論理詩ともいうべき華麗なロジックとレトリックでもって綴られた酒精度の高い散文を、それ以上詳細にたどり反芻することが私にはいまだにできそうもない。
かつて井筒俊彦の『神秘哲学』に酩酊したように、なにもかも忘れて没頭し耽溺しつくしたいとの思いがしだいに高じつつあるのだが、残念ながらいまの私はそこからたちかえるだけの体力に自信がない。
坂部恵の「しるし・うつし身・ことだま」は歌学・歌論の書である。
あるいは歌学・歌論のうちに織り込まれた「精神史的リソース」を濾過し、より広いフィールドに映し、移していくための手がかりが惜しげもなく鏤められている。
少なくとも、そのような関心をもってこれを読むことができる。
そして、梅原猛『美と宗教の発見』第二部の議論と接続することができるだろう。
私が書きたかったのはそういうことだったのだが、昨日も書いたように、その作業はこことは違う場で行うべきことだろう。