『西洋音楽史』

岡田暁生西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』読了。
「諸君、脱帽したまえ、名著だ!」
本書は「音楽の聴き方」についてのガイドである。
著者は自著をそう解説している。
その意味は「音楽を歴史的に聴く」ということだ。
西洋芸術音楽は「書かれたもの(エクリチュール)」である。
そのルーツは中世グレゴリオ聖歌に遡るが、それはまだ日本の声明にも似た一種の呪文(神の言葉)であって、建築のように設計され組み立てられた「書かれた音楽」ではなかった(8頁)。
西洋芸術音楽はまた必ずしも耳に聴こえる必要はなかった。
「音楽は現象界の背後の数的秩序だ」という「特異な考え方こそ、中世から現代に至る西洋芸術音楽の歴史を貫いている地下水源である」(23頁)。
たとえばバッハの偉大さは作曲家にしか理解できず、そのフーガの凄さは楽譜を「読んだ」時に初めて理解できる(89頁)ものだし、その「純粋な運動感覚」としての面白さは演奏家にしか実感できない(93頁)。
そのような西洋芸術音楽の誕生と転身、興隆と衰退の歴史を、著者は記譜法や楽器の開発といった技術面、教会・王侯貴族・教養市民といったパトロン層や音楽が演奏される場の推移、そして宗教や民族意識といった精神史的系譜との関係をたくみに織り込みながら達意の文章で物語る。
躍動感をもって綴られるその叙述には過不足がない。
あまつさえクラシック音楽という、私たちが好むと好まざるとにかかわらずその中に生きている「音楽環境」もしくは「音楽制度」をあたかも異文化として聴く(いや「読む」)態度へと導いてくれる。
私がとりわけ惹かれたのは、第二次大戦後の現代音楽の状況を前衛音楽・巨匠の名演・ポピュラー音楽の三つの相に分節して論じ、かつては福音であった実験・過去の伝統の継承・公衆との接点という三位一体がなぜ20世紀後半以降ことごとく呪縛に転じたかを描く終章だ。
著者はそこで「一つ確実にいえることは、われわれはいまだに西洋音楽、とりわけ一九世紀ロマン派から決して自由にはなっていないということ、その亡霊を振り払うのは容易ではないということである」(228頁)と語る。
そしてその唯一の例外がモダン・ジャズであったと書いている。

第二次世界大戦以後の最も輝かしい音楽史上の出来事は、私の考えでは、一九五○─六○年代のモダン・ジャズである。大戦前のディキシーランド・ジャズやデューク・エリントンのビッグバンドやペニー・グッドマンのスイング等は娯楽音楽の領域を大きく超え出るものではなかったが、それに対して戦後のモダン・ジャズは、一種の「芸術音楽化」の路線を歩んだ。マイルス・デイヴィスジョン・コルトレーンセロニアス・モンクやビル・エヴァンズ、あるいはバッハ演奏でも知られたMJQなどにおいては、「即興」はほとんど見せかけにすぎない。楽譜として書き下ろしていたかどうかはともかく、演奏の細部に至るまで、彼らはあらかじめ相当緻密に設計していたはずだ。またマイルスのいわゆるモード・ジャズでは、頻繁にフランス印象派を連想させる旋法が現れるし、コルトレーンポリリズム(異なるリズムを並走させる手法)──彼はアフリカやインドの音楽からも強い影響を受けたといわれる──は、ストラヴィンスキー並の複雑さだ(有名なアルバム《至上の愛》[一九六五年]には、もはや娯楽音楽の要素はまったくない)。ほとんど「作品」と呼んでさしつかえない構成の緻密さ、そして複雑かつ独創的な音システムの飽くなき探求の点で、モダン・ジャズは西洋芸術音楽と同様の性格を示しているのである。(226頁)

読後あらためて感じたのは、本書の通奏低音をなす二つの要素、すなわち宗教と経済、あるいは西洋音楽の始点に位置する「神の顕現する場としての音楽」とその対極をなす「商品としての音楽」、そしてそれらの中間にあって両者を媒介する「感動させる音楽」、すなわち西洋音楽のハイライトとしてのロマン派との三つ巴の相互関係の複雑かつ精妙なありようである。
本書最終章の末尾に著者は次のように綴っている。

現代社会において音楽が、ジャンルを問わず経済原理に呑み込まれ、消耗品となりつつあることは確かだ。クラシック音楽であれ現代音楽であれ、あるいは「世界音楽[ワールド・ミュージック]」と呼ばれる各地の民族音楽であれ、この事情に大差はない。よくポピュラー音楽がその元凶のようにいわれるが、…そもそも音楽の商品化は一九世紀西洋ではじまったとすらいえるだろう。それでも今なお音楽は、単なる使い捨て娯楽商品になりきってはいない。諸芸術の中で音楽だけがもつ一種宗教的なオーラは、いまだに消滅してはいない。カラオケに酔い、メロドラマ映画の主題歌に涙し、人気ピアニストが弾くショパンに夢見心地で浸り、あるいは少ししか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々は心のどこかで「聖なるもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか? 宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。(228-229頁)

神なき時代に生きる人々にとって「聖なるもの」が降臨するもうひとつの場が劇場ではないか。
いや、電子テクノロジーと映像技術によって仮想化された映画館こそがそうなのではないか。
少なくとも20世紀のある時期、そのような時代があったし、今なおそうなのではないか。
たとえば本書の随所に、名演を収録したCDとともにかつて音楽が聴かれた場を追体験できる映画がいくつか紹介されている。
たとえばグレゴリオ聖歌が唱えられた中世修道院世界(『薔薇の名前』:8頁)、「王の祝典のための音楽」が奏でられたバロック時代の宮廷(『カストラート』『王は踊る』:68頁)など。
映画と音楽のあいだには、(おそらく)いまだ汲み尽くされていない水脈が流れている。