極西と極東の相聞歌──鎌田東二『霊的人間』(2)

《本書でわたしは、能で言う「諸国一見の僧」のように、各所・各人を訪ね、その場と人の声音を聴き取り、その奏でる言葉によるたましいの鎮まりと賦活を試みようとした。観阿弥世阿弥や元雅が編み出した新しい身魂[みたま]の作法とは異なる、地霊の呼び声と魂のアルケオロジーを求める「霊的人間」の霊性のモノガタリを語ろうとした。》(11頁)


《文学(芸術)も宗教も学問も、ある驚きや不思議の感覚から端を発している。(略)わたしはこれら三つの領域に長いこと関わってきたが、その出自には共通の“驚覚”があると思う。本書ではその“驚覚”の赴くまま、「魂のアルケオロジー」を求めてやまない「霊的人間」の諸相を実況中継するかのように、語りの舌を動かしてきた。(略)彼らは人間の「原型」を探求する旅に出た旅人たちである。存在の根源としての魂のアルケオロジーを追い求める捜索者である。わたしもそのような旅人=捜索者の末端につらなっていると思っている。(185-187頁)


序章とあとがきに綴られたこれらの文章が、本書の実質を余さず語っている。
もしここに付け加えるべきことがあるとすれば、それは「能」とはこの場合「ケルト能」(イエイツの「鷹の井戸」に著者が与えた評言:130頁──松岡正剛の「千夜千冊第五百十八夜」にも同じ言葉が出てくる)と見るべきであるということくらいだろうか。
実際、本書で取り上げられた「霊的人間」──各章の主人公となるヘルマン・ヘッセウィリアム・ブレイクゲーテ本居宣長上田秋成平田篤胤稲垣足穂、W・B・イエイツ、ラフカディオ・ハーンの九人、終章にその名が出てくる(イエイツが「生まれながらのケルト人」と呼んだ:179頁)ウィリアム・モリスに加えて、前著『霊性の文学誌』に引き続き随所に登場するノヴァーリスドストエフスキーニーチェ、そして出口王仁三郎宮沢賢治折口信夫、さらには(いずれ著者によって主題的に論じられることになるだろう)柳宗悦──は、ケルトと日本、極西と極東の間(あわい)に立ち現われた、「「潜在」的で「普遍」的なモノを見透す想像力」と「叡智的直観」(184頁)を持った探求者たちであった。
そして「諸国一見の僧」もしくは法螺(貝)を吹く旅の修行者にして歌う神道家たる著者もまた、幽けきものの声音に耳を澄ませ(11頁,166頁)、小さきものの存在を幻視する(152頁)「驚覚」──「もののあはれ」を知る心(著者はこれを“a sensitivity to spirituality”と訳している:188頁)もしくは「「物」から「者」を経て「霊」に至る「モノ」感覚」(188頁)──をもって、霊的人間という個物(モノ=者)に寄り添いながら「より普遍的で、より古い」(184頁)ものを探求する。
こうして生まれたのが本書、すなわち(ドイツロマン主義によって媒介された)「極西と極東の相聞歌」(130頁)もしくはケルトと日本の間(あわい)に立ち上がった比較霊性学の書である。


     ※
訊き質すのではなく「聴き取る」こと。踏み入るのではなく「おとなひ・おとづれる」こと。傍観者的に眺め記述するのではなく「モノガタル」こと。
ともに霊的世界の探求をめざす「民俗学と心霊研究」(164頁)を統合した、というより文学(芸術)と宗教と学問を「モノ学」(188頁)へと総合しようとする著者の捜索方法は、霊性をもって霊性を語らせようとするものだ。
それは観阿弥世阿弥・元雅三代による「身魂[みたま]の作法」(「新しい身体の身振りを創出し、その身体作法によって鎮まらぬ諸霊のたましいを呼び出だし、そのたましいに怨みや怒りや悲しみや思いのたけを語らせ舞わせて、諸霊を鎮撫するという新しいタマフリの作法」9頁)とは異なる、新しい「カタリの作法」をもって「たましいの鎮まりと賦活」を試みようとするものである。
本居宣長を取り上げた章に、「「詩」を生み出す力は「精霊」だというゲーテの直観は、日本の国学者たちが「やまとことば」、とりわけ「やまとうた」の中に「言霊」の力の発現を見て取っていたことと相呼応する」(69頁)と書いてある。
モノガタリを語る言葉は「声音」をもっている。
そこには「物」と「者」と「霊」が共に内在している。
「そこにおいては「モノ」は単なる物質でも物体でもなく、「者(モノ)性」も「霊(モノ)性」もともに内在させている。
この物質・物体(物)から人格的存在(者)を経て霊性的存在(霊)に及ぶ「モノ」の位相とグラデーションの繊細微妙さ。」(187頁)
そしてそこには死者と生者が共在する。
死者の魂が生者の身体を導管としてこの世に蘇えるのではなく、声音のうちに死者と生者が重ね合わされている。
あたかも無数の音の波が合成されて一つの声音となるように。
あるいはあの世とこの世が「ロバチェフスキー時空間」において邂逅するように、そこでは死者(「霊的人間」たち)と生者(鎌田東二)の直接的な会話(カタリ)が成り立つ。
「さて足穂は、ロバチェフスキー空間では平行線が平行にならず、無限大に背反していくという。(略)自分が自分に交わることなく無限大に遠ざかっていくが、しかし馬蹄形に湾曲してすぐ近くに見える。無限大に離れているのに、間近に見えるというパラドックス。」(123-124頁)


霊性もまた個にして普遍、単数にして複数の平行線が無限に乖離しつつ近接するパラドックスのうちにある。
霊性とは同じもののうちに精妙な差異(個物たち)を生みだし、同時に異なるものを普遍のうちにつないでいく媒介者である。
善悪、雅俗、男女、老若、神と悪魔、「もののあはれ」と「もののけ」、妖精と妖怪等々、無数の反対物を自らの内に孕み生みだし育みつつ一致させる。
著者は、先に引用した文章に続いて、稲垣足穂の「弥勒ロバチェフスキー時空間」を即非の論理(色即是空や魔仏一如など)、反対物の一致(ニコラウス・クザーヌス)、絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)に通じるものだと書いている。
霊性は「モノ」のうちに無数の「間」をひらき、その「あわい」から立ち上がる潜在性である。
坂部恵が「生と死のあわい」(『モデルニテ・バロック』)で「Betweenness-Encounter」と訳した「あわい」(「会う)の名詞形)。
それは、そこにおいて関係が関係それ自身に関係するところの界面(木村敏『関係としての自己』)である。


《混乱を極める21世紀を生き始めたわたしたちに必要な知と力とは、生の多様の中に息づき、立ち現われてくる、このような「潜在」的で「普遍」的なモノを見透す想像力ではないかと思う。本書で取り上げた「霊的人間」たちは、それぞれの探求と叡智的直観を通じてそのことを予感し、それぞれの時代と地域の困難を生きぬこうとした。そうした「霊的人間」たちの探求が指し示す生と思想をしっかりと読み解き、みずからの霊性を通して受け継ぎ、この時代の困難を自在に生き抜いていかなければならない。》(184頁)


     ※
最後に、著者のカタリの巧みさについて簡単にふれておきたい。
それは、たとえばヘッセとブレイクをノヴァーリスでつなぎ、ブレイクとゲーテケルト民族の詩篇『オシアン』でむすび、ゲーテ宣長を「原型」探しの苛烈な精神において「二卵性双生児」と見るといった、各章の「間」をうずめていく語りの趣向のうちに端的に示されている。
ゲーテ宣長の共通点は松岡正剛(千夜千冊)の指摘を踏まえている。足穂とイエイツについて「ともに、月に憑かれて妖精─妖怪的人生をそぞろ歩いたルナティックな人物である」(134頁)とあることなども含め、本書には鎌田東二松岡正剛の「ロバチェフスキー的関係」が見え隠れする。)
しかしそれらは見やすい例にすぎないのであって、序章から終章、あとがきにいたる本書の構成のうちには、おそらく私などが迂闊にも気がつかない大掛かりな仕掛け(霊性もしくは霊的人間のロバチェフスキー的邂逅)が施されているに違いない。
実際、叙述のなかの一見何気なく鏤められた言葉のうちにさえ、その痕跡のようなものが仄見えるのである。
いま思い出すままに若干の例をあげるならば、ヘッセの章の『デミアン』を話題にした箇所(17頁)に出てくる「カインのしるし」は、平田篤胤の章(103頁)に出てくる「顔にアザアルノガ、兄弟ヲコロシテ家をウバフ相也トテイヤガラレ」(襖の下張りから発見された篤胤の手紙)と相呼応していないか。
また同じく『デミアン』の語り手シンクレールの夢の中に出てきた「鋭い精悍なハイタカの頭をした猛鳥」(アプラクサス)とイエイツの章の冒頭に登場する女が化身した鷹(「鷹の井戸」)は不可視のロバチェフスキー的導管を通じて相互変換の関係にあるのではないか、等々。