マテリアルとスピリチュアリティ──鎌田東二『霊的人間』(1)

郡司ペギオ−幸夫は『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』で、「痛み」は「傷み」であると書いている。
郡司氏の精密な議論を荒々しく要約してしまうと、次のようになる。
痛みは「プログラム」(わたしというシステム)によって計算される「データ」(刺激)やその変形(刺激データの変換の変換の…と無限に続く)ではない。
認識主体(私というシステム)のフィルターを通した現実世界(仮想世界と区分されるところの現実世界)とは異なる「存在する現実世界」(プログラムとデータの外部にある現実世界)というものがあって、プログラムとデータの両者は各々それとの接点を持っている。
だから「わたしというシステム」が外界から刺激を受け取ったとき、刺激に対してデータとしての対応とプログラムとしての対応とを同時に要請される。
つまりデータとプログラムの変形・変換が双対的に生じ、データとして評価することと評価機構の損傷、すなわち「傷み」とが同時進行する。


《データは計算論的意味を有し、認識される表象を有する。プログラムは摩耗、疲弊をともなうことで、物質的意味を有し、感覚やクオリアを有する。データとプログラムの両者が質料を介して連関し、まさに質料によって、互いの関係が解体されることで、各々が現実世界との接点を持ちうる。それが認識や感覚である。そう議論してきた。
 質料は、最初に想定された二つ──内包・外延、プログラム・データ、現実世界・仮想世界──の裂け目で、外部から滲み出るものだ。それは区別を創り出しつつ、潜在的なものによって区別を無効にする。表象は素材性がもたらす顕在的な区別に依拠し、クオリアは潜在性に依拠するが、ともに質料を経由して出現し、それ自体質料を啓発する。すべては区別可能でありながら、分かちがたく結びついている。
 このような分離の困難、未分化な質料の痕跡に対して、「痛み」という言葉を使いたいと思う。内包・外延の齟齬と調停が引き起こす、まるごとの現象が担う質料の痕跡、それを痛みと呼ぶわけだよ。》(146-147頁)


また「痛み」は二人称の問題である。


《これを扱うアプローチにおいて、いわゆる主観と客観のダブルスタンダードは許されない。媒介者、質料なくして痛みは成立しない。一人称としての、いまここにあるわたしの痛みは、わたしにおいて疑う余地がなく、論じる必要がない。三人称の痛みという、わたしと完全に切れた痛み概念は存在しない。痛みの問題は、常に、わたしが対峙する他者の痛みの問題であり、わたしの痛みを他者に伝える際の問題である。だからそれは、わたしの痛みを理解し、表現する、という問題として成立する痛みであり、二人称の痛みの起源としてのみ、成立するんだと思う。
 退けるべきダブルスタンダードは、対象レベルとメタレベルの言説を、媒介者なしに用意して、ある場合には前者、別の文脈では後者というように、適宜使い分けることだよね。…そこには外部が現れない。だから僕たちの現実世界と無関係になる。痛みでは、所有性・私秘性ということもよく議論されるけど、これを理解するにも、部分と全体の関係・調停の理解が不可避だよね。》(149頁)


     ※
長々と別の書物からの引用を重ねたのには、わけがある。
鎌田東二いうところの「モノ(スピリチュアリティ)」が郡司氏の「質料(マテリアル)」の概念と重なって読めたからだ。
鎌田氏は『霊的人間──魂のアルケオロジー』のあとがきで、次のように書いている。


《ところで、この十年ほど、わたしは「モノ」にこだわってきた。わたしの「モノ」への関心は、最初、「モノのけ」から始まり、その後、「モノがたり」を経て「モノのあはれ」に移行し、現在は「モノづくり」に多大な関心を寄せている。
 子供の頃、「オニ(鬼)」と呼ぶほかない「モノのけ」を何度も目撃し、十歳で『古事記』という「モノがたり」を読んで次のステージに突入し、その後平田篤胤柳田國男折口信夫の「モノのけ」研究にインスパイアーされ、ここ数年は本居宣長の「モノのあはれ」論を再吟味しつつ、柳宗悦民藝運動などの「モノづくり」伝承の厚みに“驚覚”を重ねている。
 そうした「モノ尽くし」の結果、日本列島文化においては「モノ」の見方の中に「霊性」のはたらきがあったと考えるようになった。そこにおいては「モノ」は単なる物質でも物体でもなく、「者(モノ)性」も「霊(モノ)性」もともに内在させている。この物質・物体(物)から人格的存在(者)を経て霊性的存在(霊)に及ぶ「モノ」の位相とグラデーションの繊細微妙さ。》(187頁)


郡司氏の精緻なロジック(概念の精錬)と鎌田氏の「モノ尽くし」(概念の重ね合わせ)とをいっしょくたにすることにはためらいがある。
でも、「「私だけではない。他者は、世界は、実在する」このような感覚が、我がこととして血肉となること。他者、世界を実感すること」(『生きていることの科学』7頁)という表現と、「驚覚」もしくは「驚き・不思議の感覚」(『霊的人間』185頁)、「「モノ」感覚」(同188頁)という語彙とはたしかに響き会っていると思う。
郡司氏は、マテリアルとは「媒介者」(「一方で認識とその外部の分離を可能とし、他方その区別を無効にするがゆえに両者を媒介できる。この二つがマテリアルにおいてつながっている」6頁)であり「潜在性」(「区別を創り出しそれを無効にする力を潜在させるもの」124頁)であるという。
鎌田氏の「モノ」もまた、そのような媒介性・潜在性をもっている。