目を開いたまま夢を見る場所──加藤幹郎『映画館と観客の文化史』

「本書は日本語で書かれた初めての包括的な映画館(観客)論となる」(292頁)。著者はあとがきにそう書いている。
それでは、なぜこのような書物が書かれなければならなかったのか。
「映画はそれ自体としては存在しえない」(27頁)からである。「理論的予備考察」と題された序章で、著者はそう述べている。
「映画館(上映装置)のなかで切り取られる上映時間という生きられた「現在」の空間的な写像ないしは存在論的な時間の問題をぬきにしては、映画は真に論証の対象にのぼることはできない」(27頁)し、「映画が立ち現れる場所以外に映画に訪ねるべき起源がない」(29頁)からである。


リュミエール兄弟の映画[シネマトグラフ]の初公開(一八九五年)以来、長いあいだ映画を見ることは、一枚のスクリーンに拡大投影された映像を不特定多数の観客がひとつの場所で共有することを意味してきた」(51頁)。
しかし、過去一世紀以上にわたる多様な映画興行の歴史からみれば、このような「リュミエール映画史観」(48頁)は根底から修正をせまられるだろう。
映画館の観客が座席に縛られたも同然の状態で、スクリーン上の表象を現実と誤認する快楽にひたるという「映画(モーション・ピクチュア)の観客のこの「不動性(モーションレスネス)」は、…歴史的産物にすぎず、…映画史初期から古典期への移行過程でたまたま獲得されたものにすぎない」(20頁)からである。


こうして、スクリーンを虚構世界が現出する場そのものとして論ずること、つまり透明な窓の向こうの景色(映画作品)ではなく「窓を窓として窓そのものを論ずる」(35-36頁)という本邦初の試みが開始された。
「すべてを見る[パノラマ]」(19頁)こと、すなわちひたすら「異世界の運動の写実的再現」(19頁)につとめる公共的な見世物(スペクタル)としての興行や、これとは異質なキネトスコープ(覗き箱式の映画装置)による「唯我論的な」映像体験という最初期を経て、安普請の最初の常設映画館(ニッケルオディオン)の流行から古典的ハリウッド映画を上映する豪華で巨大な映画宮殿(ピクチュア・パレス)へ。
そして「映画のテレヴィ化プロセス」(138頁)の遂行──テレヴィ産業の隆盛とともに生まれたドライブ・イン・シアターから「映画がテレヴィに完敗したことのまぎれもない証左」(156頁)であるシネマ・コンプレックス(映画を見るための場所への純化)の形態へ──を経て、かつてのパノラマ館やシネマトグラフのような見世物への回帰を思わせる巨大なアイマックス・シアターへ。
あるいはキネトスコープ(「唯我論的世界観を可能にする心的装置」:52頁)以来の「ひとりで映画を見るという経験」(149頁)を復権させたVCRやDVDの出現。


アメリカ篇、日本篇の二部構成で叙述される映画館(映画上映装置)とその観客(映画の享受・受容)の歴史は実に興味深い。
とりわけ、映画館と教会との親和性の指摘──「ニッケルオディオン期にはしばしば教会が改装されて映画館に生まれ変わり、ニッケルオディオンのない田舎街[スモールタウン]では巡回上映技師が教会を代用映画館として利用し」(137頁)たこと、「シネマ・コンプレックス期に入ると。しばしば在来型映画館は教会へと衣替えした」(138頁)こと──や、列車旅行と映画体験との密接な関係をめぐる考察(第1部第4章第2節「ヘイルズ・ツアーズ──擬似列車旅行」)はひりひりするほど刺激的である。


《映画宮殿[ピクチュア・パレス]はたんに宮殿と映画館を合体させただけのものではなかった。それは同時に光の神殿でもあった。ピクチュア・パレスのロビーの高窓にはしばしば壮麗なステインド・グラスが嵌めこまれ、館内に射しこむ外光が「神は光なり」という聖書の言葉を具現化したカトリック教会のように、ひとびとに心の安寧もたらした。そもそもカトリック教会じたい太陽光によって栄光の物語を上映する映画館であるともいえる。(略)映画史がリュミエール(光)兄弟からはじまったとする説をとれば、「光よあれ」というキリスト教の神の言葉はキリスト教文化圏にはじまった映画というテクノロジー文化にもっともふさわしいモットーとなるだろう。映画はまた死者が生前と変わらぬ姿で現れる媒体であり、その意味で映画は霊媒であり、映画館のスクリーンは永遠の生をあがなう祭壇である。》(111頁)


《列車の驚異的な速度が風景とその知覚者(旅客)とのあいだに見えない壁をつくりだし、見る者と見られるものとを組織的に隔てるようになった。列車の乗客は車窓をとおして風景を見ることはできるが、かつての騎馬や馬車旅行者のように旅を五感で味わうことはできなくなった。そのかわりに得たものは、よくいえば視角の特権化であり、車窓につぎつぎとあらわれては消えてゆく「奥行きを失った」風景の連続、つまり「シーンの連続」の体験であり、それは映画が編集段階をへて獲得する効果とも似ていた。
 列車旅行者は旅をもっぱら視覚的にしか体験できなくなってしまっていたが、その視覚的経験は列車の速度において、めくるめく体験となった。車窓からの眺めは、齣撮りによるあわただしい花弁の開花のように、それまで見慣れていたはずのものにまったく新しい表情をあたえた。列車のスピードは人生の奥行きを犠牲にして、平板ではあるが簡便な旅を可能にした。それは新しい幻惑媒体としての映画が観客にあたえることのできるものと似ていた(「現実」の再現装置としてのフラットなスクリーンの経験は、「切り返し」編集による立体感創出にもかかわらず人生の「奥行き」の喪失の経験であり、「シーンの連続」は係留点としての自我の喪失、すなわちエクスタシーの経験である)。そして旅の経験を視覚的幻惑に還元する列車をその極限にまで推し進めることによって、擬似列車旅行体験装置ヘイルズ・ツアーズは映画に行き着いた。ここにおいて映画と列車旅行は文字通り合体したのである。》(178-179頁)


     ※
ただ、本邦初の「新しい冒険」(あとがき)であるだけに、本書には多くの知見や仮説、論点が必ずしも存分に深められ相互に関連づけられることなく後の考察に委ねられている。
著者自身「続篇」の必要性を痛感しているゆえんである。


たとえば、「ひとは映画館のなかや上映装置のまえでかならずしも映画を見ているとはかぎらない」(31頁)と著者は書いている。
この論点(ひとは映画館という都市装置を使ってほんとうは何をしてきたのか──あるいは映画館の闇と教会の光との関係?)は本書の随所に見え隠れしている。
その一端は、第2部(日本篇)第3章のポルノ映画館を取り上げた次の箇所に出てくる。
しかし、それらが主題的に存分に論じられることはない。


《同性愛者という社会的少数派[マイノリティ]が自分たちの居場所[コミュニティ]を都市の片隅に維持しえているという事実は、たとえそれが老朽化した映画館であったとしても慶賀すべきことであろう。都市というものが、たえず自己変革してゆくものであるとすれば、変革の埒外、再開発計画から取りのこされた場所が性の(再)生産の場たりうることは悦ばしいことである。
 映画館が不安と懊悩の場所だという話はあまり聞かない…。映画館はあくまでも目を開いたまま夢を見る場所である。たとえ映画作品とのすばらしい出遭いがなかったとしても、ポルノ映画館は同性愛者同士の愛の出遭いをかなえるはずである。映画館と作品と観客の均質化ということで言えば、シネマ・コンプレックスのほうがよほどポルノグラフィックな産物であろう。ポルノグラフィとは性的に卑猥な画像という原義から派生して、ステレオタイプ、静態的常套、おさだまりのパターン、要するに均質性といった含意をもつからである。》(281-282頁)


あるいは、「ひとが観客になる」とはどういうことか。
著者は、第1部(アメリカ篇)第5章「観客の再定義」で、このことの理論的考察(ただし中間段階の)を行っている。
以下は、古典的ハリウッド映画の最大の特徴のひとつである「切り返し」編集(見る者のショットと見られるもののショットとを繋ぎあわせる編集)こそが、登場人物への感情移入ないし自己同一化による観客の物語世界への参入(没入)を促すしかけであったことにふれた後に出てくる文章である。


《しかしハリウッド映画をのぞく世界のさまざまな製作現場では今日「切り返し」編集を(ほとんど)使用しない映画が多数つくられており、「切り返し」はひとが観客になるための絶対的条件ではない。むしろ重要なことは、「切り返し」編集が前提としているもの、すなわちカメラは基本的にどこにでもおくことができるという単純な事実である。このカメラの遍在性がひとをして観客たらしめる最大の要因である。カメラは世界中どこにでもポジショニング可能であり、それゆえ観客は世界のあらゆる場所を見ることができる。カメラの遍在性に裏打ちされた観客の視線の遍在性とパノラマ性が、ひとをして「観客」たらしめる。観客はいながらにして世界のあらゆる場所、あらゆる時間を眼下におさめる超越的な主体となりうる。ひとが真に自己同一化しているのは、映画のなかの主人公というよりも、むしろこの超越的な見る主体である。そしてそれが一般にひとが観客になるということである。》(202-203頁)


 ここに示された仮説を、たとえばパノラマや列車旅行がもたらした映像体験、そしてVCRやDVDという「動画を見ているのはつねに自分ひとりであり、そしてその動画の動画たる根拠、すなわちいつどのようにそれに動きを吹きこむかを決定するのは自分であるという、いささか唯我論的な世界観を可能にする心的装置」(150頁)がもたらす視聴覚経験などの具体の状況に即して検証を深めていくと、そこからどのような議論がひらけるのだろうか。


そして最後に、映画館・観客の文化史と「解釈」という名の映画受容との関係。
著者自身の言葉でいえば「映画館(ないし映画装置)の差異が映画作品の解釈にどのような影響をおよぼすのか」(あとがき)という論点である。


《じっさい映画作品の解釈は、わたしたちが映画作品をいつどこでどのように受容するかによってさまざまに異なってくるはずである。(略)映画館(上映装置)の様態の違いにもかかわらず、つねに中立的、客観的な映画作品の受容=解釈が可能になるという考えは、形而上学的虚構か映画史的無知かのいずれかであろう。(略)本書で映画館とその観客の歴史が問題になるのは、作品の解釈の変化の歴史が問題になるからである。映画作品はどの時代の、どの観客にも、つねに同じ意味を明示するわけではない。じっさいいかなる作品も、その多様な解釈の根拠をみずからの脱構築のうえに有している。脱構築とは、この場合、作品を受容、解釈するたびごとに生きられる事件というほどの意味である。》(26-27頁)


私は未読だが、『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』が「DVDプレイヤーが、いかに脱構築的な読み(それまで観客が夢にも思わなかった映画テクストの非均質性)を明示しうるものであるかということの実例」(293頁)だということなので、この本は至急入手して読んでみよう。
こうした個々の映画作品の「解釈の変化の歴史」を積み重ねていくことが、著者いうところの「硬直状態」(27頁)から映画史を救済することにつながるのだろう。