定家的なもの(イタリア篇)

 岡田温司著『イタリア現代思想への招待』(講談社選書メチエ)の、美学が大きな位置を占めるイタリア思想界の状況について書かれた第四章「アイステーシスの潜勢力」から、これまで抜き書きしてきた三島由紀夫の文章と、あるいはそこにおいて見え隠れしていた「定家的なもの」と、どこかで響き合っている(ような気がする)ところを抜き書きしておく。


◎イタリアの文化は、たとえレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロのような大天才を輩出したとしても、根本的には折衷主義的なもので、一般に(近代的な意味での)独創性や創造性に欠けることは、これまでにも指摘されてきた。よしそれがルネサンスのものであれ、哲学も芸術も文学も、その根はほとんど古代ローマにさかのぼるものであり、しかもその古代ローマは、ギリシアに多くを負っているのである(その意味で、中国に負うところの大きい日本と状況は似ているかもしれない)。極言するなら、イタリアの文化はそもそもの起源からして、コピー、反復、シミュラクルにほかならなかった、とさえいえるだろう。(171-172頁)


◎いかなる起源もないことが、イタリアの起源であるとするなら、反復こそがその起源にある。それゆえ、イタリアの文化を特徴づけてきた文献学への愛も、実は、起源としてのロゴスへの愛に発するわけではない。ロゴスのための文献学ではなくて、いわば文献学のための文献学(反復のための反復)、それこそがイタリアの文献学の最大の特徴であり、文化の伝達と反復はこの理念に支えられてきた。(173頁)


◎もしもイタリアという存在それ自体が(やはりどこか日本の場合と似て)漠然とポストモダン的であるとするなら、イタリアのポストモダンとは何であろうか。その差異や特徴はどこにあるのだろうか。(181-182頁)


◎ここでもういちどカラブレーゼの本[オマール・カラブレーゼ『ネオバロックの時代』1987年]に返ろう。この本は、「趣味と方法」と題された最初の章と、「クラシックを好むだれかへ」と題された最終章に挟まれて、順に「リズムと反復」、「極限と過剰」、「細部と断片」、「移ろいやすさと変貌」、「混乱と混沌」、「渦と迷宮」、「複雑さと散乱」、「〈おおよそ〉と〈なぜかしら〉」、「歪曲と倒錯」というタイトルの各章から構成されている。これら九組の対句こそ、バロックと「ネオバロック」──ポストモダン──の文化形態を形容するものにほかならない。(193-194頁)


◎そこ[十七世紀の修辞家たち]において、主体は、近代におけるように内側から立ち上がってくるのではなくて、むしろ外から到来する。人間は、内面としての存在でも、中心にいる存在でもないのだ。内面を空にしたまま、外からやってくるものにたいしてじっと聞き耳を立てている、そうして歴史が望むところに静かに天秤を傾けていく、そこにこそバロック的な知の戦略的な意味がある、とベルニオーラ[『エニグマ』1990年]は考える。
 そのためにバロックが培ったのは、言語の技術としての修辞──「機知[agudeza]」、「才知[ingenio]」、「綺想[concetto]」はその代表──である。それゆえ修辞とは、たんに外面的な言葉の彩にすぎないものではないし、ましてや、主体みずからの主義主張を他者に押し付けるための道具とみなされるものでもない。そうではなくて、修辞とは、人間存在にとってもっと根源的で本質的なものであり、美的でかつ倫理的、実践的でかつ政治的なものである。
 たとえば、「綺想(コンチェット)」を例にとってみよう。わたしたちは「綺想」というとき、「コンセプト」としての「概念」のことを考えがちである。だが、それは実際には、カント以来のドイツ哲学が練り上げてきた「概念[Begriff1]」とは根本的に異なるもの、否、むしろ正反対のものですらある。というのも、ドイツ語の「概念」は、「つかむ、握る」という意味のラテン語 greifen に由来するが、「コンチェット」は、逆に、「受胎する、いだく」という意味のラテン語 concepto に由来するからである。つまり、何かを自分のものにするのではなくて、何かに場を与えることを意味しているのであり、客体を把握しようとする主体の働きではなくて、そうした主客構造を超えて、外から到来する何ものかを受け入れる心構えのことをさしているのである。(195-196頁)